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証言  キさん残留婦人

2013年7月から12月まで。長野県・埼玉県・神奈川県・東京都在住の中国残留孤児・中国残留婦人・中国残留邦人へのインタビューです。

大正12年生まれ。開拓団員が花嫁を探しに来て、役場から紹介があって、満州に行った。花園開拓団。

 お米が配給だけで、野菜を混ぜて炊いた。女の子が生まれた。22歳の時、終戦。夫は終戦直前に召集。子どもは2歳。終戦の時、皆、開拓団本部に集まり、君が代を歌って、家に帰り、炒った大豆を持って、夜11時過ぎに二列になって足音を忍ばせて、チョーポンプの開拓団に行った。中国人の襲撃にも遭った。違う開拓団に行った時、ソ連兵に沢山の女性がレイプされた。「ホロホロモウス。マダムサンゴ」 ある日、臨月の妊婦がレイプされ、夫がおぶって連れ帰ったが、その晩亡くなった。大きな川を渡るとソ連兵がたくさんいた。列車に乗ったが、ソ連兵が女を出せ、出さなければ列車を通さないと言われ、犠牲になった人がいた。貨物列車で、新京に行った。収容所に1ヶ月くらいいた。食べるものはなかった。いくらかのお金で中国人から食べ物を買った。セーアン(奉天)から歩いて撫順まで行った。発疹チフスで毎日沢山の人が亡くなった。子供も亡くなった。友達が中国人家庭に入り、迎えに来た。自分も中国人家庭に入り、命を繋ぐことができた。

 5人の子どもを生み育てた。日本人の夫はシベリア経由で3年後に日本に帰って来ていた。

後期集団引き上げの時、日本に帰るチャンスがあった。しかし、子どもを捨てて自分だけ日本に帰ることはできなかった。

 

 大飢饉の時は、木の実、木の皮も食べた。近所に日本人が多かったので、1ヶ月に1度、会っていた。何年か経って、母親が自分を探してくれて、日本に帰る道筋をつけてくれた。

 一時帰国の時、前の日本人の夫にも会った。1979年に永住帰国。

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