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ホームページ立ち上げの経緯

 

  1972年9月、田中角栄元総理大臣の中国訪問が実現し,日中国交回復が実現した。そして1976年の10月下旬から11月初旬にかけて、「民間中国語学習者訪中団」の一員として、初めて中国を訪れた。形式上は中国政府の招待ということであったが、日中学院の学生を中心に、何度も申請を出してやっと許可が降りた有志の集まりだった。団員には元社会党の国会議員やピンポン外交で有名な大関行江さんもいた。参加者が二人足りないとのことで、急遽参加することになった。長い間の国交断絶直後だったので、当時は飛行機は飛んでいなくて香港から汽車で中国に入った。駅ではもくもくの煙の中で、サトウキビ(おやつ)を売る人がいた。道路は自転車で溢れていた。大きな豆腐を縄で縛って自転車にぶら下げ、帰宅を急ぐ人民服を着た人々の群れに驚いた。ホテルの周りを散歩すると外国人は珍しいらしく人だかりができた。そんな時代だった。広州、桂林、毛沢東の生家のある長沙などを訪ね、民族学院や鉄道学院等でのレセプション、大学生と歓談、卓球、バレーボール等に興じた。

 当時は、終戦直後から、日本に帰りたくても帰る術のない日本人(後に中国残留孤児とか中国残留婦人、中国帰国者と呼ばれることになった方々)が、大勢中国に残っていることなど、知る由もなかった。​ 最初の出会いは日本語教師をしている時であった。埼玉県国際交流協会(日本語講座コーディネーターをしていた)の依頼で日本語ボランティア養成講座を県内の各地で行っていた時、出会ってしまった。個人的に何度か教室に通っている間に、次々と疑問が噴出した。なぜ日中国交回復後、20年も経つのに、帰国したくても帰国できない方がいるのか?なぜ家族を呼び寄せて一緒に暮らすために、昼も夜も(二つの仕事を掛け持ちで)働いて旅費を作らなければならないのか?福祉は何をしているのか?最初は貧困な援護政策に対する怒りであったように思う。とりわけ生活保護受給に対する彼らの恨み節がよく聞かれた。「生活保護を受けていても、私たちは人間です。孫に小遣いも遣ってはいけないなんて、馬鹿にしないでください。」「団地では、余計者・厄介者と陰口を叩かれる。福祉の窓口ではそういう扱いをされる」等など。 

 それからしばらくして、文化庁の「中国帰国者のための日本語教育Q&A」(大蔵省印刷局出版)作成に携わる機会を得、各地の中国帰国者の方にお会いする機会に恵まれた(大阪大学山田泉氏、NPO中国帰国者の会 長野浩久氏と共に泰阜村に佐藤治さんを訪ねたのもこの時)。その頃の問題意識から大学院に進み、埼玉県内の中国帰国者に、アンケートを依頼したり、インタビューのビデオ撮影等に協力をお願いした。また、博士課程の時(1997年7月4日~7月14日)に、修士課程で知り合った瀋陽師範大学の先生に通訳をお願いして、中国に残っていて日本に帰らない選択をした残留孤児・残留婦人、養父母にお会いし、お話(ビデオ撮影)を伺った。これらの動画も本人、親族に連絡を取り、同意を得た上で、なるべく早く公開したいと思う。この頃の問題意識は、「国家とはなにか」「日本人とは、日本人の国民性とは何か」というように自分では手に負えないような大きなテーマに変遷して行っていた。

 そして今年の春「満蒙開拓平和記念館」オープンに伴い、素晴らしい出会いがあり、中国残留孤児・残留婦人にインタビューさせていただく機会があった。飯田から安曇野、佐久市と聞き取りを行おうとしたが、昔お会いした方々の多くがお亡くなりになっておられ、同じ方の18年前と現在(新支援法以前と以後)を同時に公開したいと思っていた私の目論見は、打ち砕かれた。

 ただただ、これまでの中国残留孤児・残留婦人の歩んできた困難な道のりを、一人一人の人生を、多くの方々に肉声で知っていただきたいと思い、インタビュー動画をホームページで公開することとしました。

 

                     《あれやこれやの蛇足》

 個人的な話で恐縮ですが、私は今年還暦を迎えました。私の父は地方公務員でしたが、還暦退職を機に、自分の趣味で勉強してきたものを纏め、本を自費出版しました。その当時県庁では還暦記念自費出版が流行っていたのでした。還暦を迎え、そのことを思い出し、これまでの人生の区切りに、これまでの研究を纏めて出版しようかとも考えましたが、私自身、諸先生方から送られてくる本の、どれだけを興味深く読んでいるかと問われると、言葉に窮します。諸般の事情で10年前に研究や仕事(専門学校・短大非常勤講師)から離れた私には業績のための出版物は必要ありません。 記念行事ではなくて、未来に向けた何か意義のあることをしたいと考えていた時、「満蒙開拓平和祈念館」がオープンするので来ませんか、というお誘いを受けました。昔書いた修士論文「中国帰国者の福祉問題-生活史および生活問題分析を通して-」(国家賠償訴訟の証拠品にもなった)の一部を加筆し、中国帰国者定着促進センターの紀要に「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」として書いた論文(ネットで公開されている)をダウンロードし、読み込んでいてくださったのです。そして、記念館の年表作成の参考にしたと聞き、とても嬉しかった。あの論文を書くにあたっては、図書館で朝日新聞の縮刷版を来る日も来る日もめくっては関係記事を探した忍耐の日々があったのでした(当時は聞藏もなく、CD-ROMは三年分くらいしか発売されていなかった)。私にとっては多くの時間を割き苦労した分、かわいい論文でもあります。いくつかの論文の参考文献にも挙げられております。 以前、NHKとTBSのプロデユーサーから、記事内容についての問い合わせもあり、私の知らないところで役に立ってくれていることに嬉しくもありましたが、それを上回る喜びでした。直接、帰国者の支援をなさっている方に、かわいがって貰っている。研究も仕事も断念した私には、昔の苦労が報われたような諸々の悲しみが癒されたような何物にも代え難い幸せな気持ちになりました。そんなご縁で、中国残留孤児・残留婦人の方々とお会いしお話を聞く機会に恵まれました。インターネットで論文が公開されていなかったら、そのようなご縁もなかったかも知れません。そんなことから、インターネットで彼らの肉声が、歩んできた人生が、世界中のどこからでも、いつでも、いつまでも、未来に渡って聞くことができる中国残留孤児・残留婦人の証言を集めたアーカイブ ホームページを立ち上げようと思い至りました。

 今回の残留孤児・残留婦人のお話もそうですが、17.8年前、泰阜村、佐久市、御代田町、軽井沢町、立科町、大宮市(統合され現在はさいたま市)、岩槻市(統合され現在はさいたま市)、秩父地方、東京都などで、残留婦人にお話を伺ったビデオ(8ミリテープ)やテープ、12.3年前に、瀋陽、長春、撫順で暮らしている残留婦人、養父母などへの聞き取りビデオ(8ミリCDーR)を公開し、研究・教育はもちろん、広く一般の方に見ていただいて、一人一人が歴史の流れの中で、どのような人生を歩んできたのかを理解する一助となれば嬉しいと思います。インターネット公開にあたり、同意書を作成しましたが、多くの方が「仮名」ではなく「本名で」と希望されたのには少なからず驚きました。しかし、諸般の事情を考慮し、すべて仮名と致しました。どうぞ、「本名で」とおっしゃったお気持ちを斟酌してビデオを見ていただければと存じます。

                                          (2013年10月3日)

                       《これまでしてきたこと》

【論文】

*『外国人留学生の日本語能力測定方法に関する分析と考察ー日本語能力試験1級および大学入試の日本語試験を中心にー』1995.3.20発行 東洋大学紀要 教養課程34号(共著 石垣貴千代東洋大学助教授、斉藤里美東洋大学助教授)

*『定住を前提とする外国人の日本語学習ソーシャル・サポート・システムについての一考察 -埼玉県の現状から-』1996.3.29発行 中国帰国者定着促進センター紀要 4号 

  www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kiyo/04/k4_06.pdf

*『中国帰国者の福祉問題ー生活史および生活問題分析を通してー』 1998.3発行 東洋大学大学院社会福祉学修士論文

*『中国帰国者の生活問題』1998.3.31発行 第23回東洋大学大学院社会学研究科院生共同セミナー報告論集

*『年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開』1998.5.29 中国帰国者定着促進センター紀要 6号

   www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kiyo/06/k6_12.pdf

*『中国帰国者の生活問題分析』 1999年2月10日 東洋大学社会学部紀要 第58集 共著 園田 恭一教授

 

【執筆】

*『月刊 社会教育』 国土社 1996.7.「演劇を通して日本語教室のあり方を考える」 

*『埼玉の日本語教室多言語案内 '97』 凡人社 1997.2.10発行 編集代表

*『中国帰国者のための日本語教育Q&A』 文化庁国語科 1997.3.31発行 「第1章 中国帰国者と日本社会」

*『教育キーワード137 』時事通信社 1997.5.30発行 「中国帰国者の教育」

*『月刊 日本語ジャーナル』アルク 1997年4月号から1998年3月号まで連載。「ちきゅう家族の生活術」共著 春原憲一郎

*『福祉社会事典』 弘文堂 1999.5.15 分筆数項目

*『現代社会福祉辞典』 有斐閣 2003.11.10 分筆数項目

*朝日新聞 1997年11月12日 論壇「異文化の壁越える受け入れ策を」(2001年の岡山大学文学部 小論文 入試問題で使用される)

 

【委員】
文化庁「中国帰国者のための日本語教育指導書作成部会」委員(1994.1995)
文化庁「中国帰国者のための日本語通信教育(試行)調査研究部会」委員(1996.1997.1998)

財団法人「埼玉県県民活動総合センター運営協議会」委員(1997.1998)
 

【賞】
 第23回日本自費出版文化賞受賞(2020年9月)『不条理を生き貫ぬいて 34人の中国残留婦人たち』
 第24回日本自費出版文化賞大賞受賞(2021年9月)『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上・下)』
 第25回日本自費出版文化賞受賞(2022年9月)『WWⅡ 50人の奇跡の命』

 

【その他】

*NHKスペシャル「中国残留婦人たちの告白〜二つの国家のはざまで〜」取材協力/出演 初回放送日2022年9月24日

*シナリオ『ある日の日本語教室』1995.11.18 埼玉県県民活動センター 埼玉日本語ネットワーク(仮称)交流会

*シナリオ『心の扉をたたくのは』 1996.2.17大宮ソニックシティー小ホール。「多文化共生社会に向けて ~日本語ボランティア活動とは~」彩の国さいたま国際協力フォーラム'97

*『文化庁月報』1998 対談 徳川宗賢(学習院大学教授)、才田いずみ(東北大学助教授)、司会 西原鈴子(国立国語研究所)

 

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