top of page

証言 Pさん<残留婦人

2013年7月から12月まで。長野県・埼玉県の中国残留孤児・中国残留婦人・中国残留邦人へのインタビューです。

 1930(昭和5)年生まれ。6人兄弟。この戦争で兄弟は全員亡くなった。満州へ行く前は養蚕をしていた。満州開拓には、9歳の時、両親と兄と4人で行った。満州へ行くきっかけは兄弟が大勢だったので。運動場に集まって、村の会議。「満州へ行く」というまで続いた。立派な二階建ての家が用意されているということだった。小学2年生、7歳で渡満。4年生、9歳で渡満。「大陸の花嫁」も一緒だったが、コウリャンのご飯にウンザリして帰りたがったが、団長の許可がおりず、帰れなかった。

 黒竜江省のソ連との国境間際の開拓団だった。トラクターで耕して根っこを掘って開墾した。行った時は家もなく、材木を山から切り出してきて、中国人に家を作ってもらった。米を作っても供出しなくてはならず、自由には食べられなかった。いろいろな配給があった。馬も1頭配給された。

15歳の時に終戦。父親は年齢が高かったので根こそぎ動員はされなかった。開拓団本部から避難命令が出て、自分たちの開拓団の学校(大古洞)に避難した。柏崎の開拓団、滋賀県の開拓団も一緒に住むようになった。何百人もいた。8月17、8日過ぎからは、ソ連兵が来るようになってずいぶん女性は泣いた。同級生は全員亡くなった。辛さは死んでも忘れない。命だけ繋いでいたが、食べ物もなくなり、山菜、雑草等食べていた。18歳まで3年間くらいいた。寒さは凌げたが、食べ物はなく、1年に200人くらい死んでいった。開拓団の団長から、「かんこしな」(自分で好きにしなさい)という命令が出た。皆日本に帰りたいので、ハルピン目指して歩いた。父親もそれ加わったが、ハルピンに着いて亡くなった。母親は病気で歩けなかったので、私は母親と残り、開拓団に帰り1週間隠れていた。中国の兵隊が調べに来た。空腹だったので死ぬ覚悟で兵隊の所に出て行った。兵隊が家に連れて行ってくれて、母親の病気を治してくれた。お粥を食べさせてくれ、私たちは助かった。

 20歳になり、その兵士と結婚した。夫は日本の軍隊に入っていて、日本語もわかった。農業をして、6人7人の子どもを育てた。作物は供出しなければならず、大飢饉の時は木の皮や花も食べた。文化大革命の時は、毎日のように吊し上げがあった。中国語がよくわからなかったし、行きたくなかった。子どもがいじめられることはなかった。中国語は苦労したが、看板などで漢字を勉強した。

 日中国交回復後、帰国の機会はあったが、子どもを置いてくるのが嫌で残った。その後、山本慈照先生達のお陰で帰れることになったが、日本に親戚がいなかったため、手続きが大変だった。

1978年、48歳で一時帰国。身元引受人がいなかったため、中国に戻った。60歳の時、18歳の息子を連れて2回目の一時帰国(国費)をし、自分で手続きをして永住帰国に切り替えた。その後、自費で家族を順番に呼び寄せた。その時、夫はすでに亡くなっていた。

 永住後、工場で働いた。残留婦人達で何度か厚生労働省に手紙を出して、国民年金をもらえるようになった。

今までを振り返って、一番大変だったのは終戦後。今でも、テレビで爆弾が落ちる映像などを見ると、ご飯がのどを通らなくなる。若い人達に伝えたいのは、「平和が一番で、私達は戦争で本当につらい思いをしてきている」ということ。戦争がなければみんな普通の生活ができたのに、私達の時代は戦争で苦労してきたから。

bottom of page