アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(17)元ハルピン陸軍病院 従軍看護婦 金城文子さん
2017年1月20日から2月2日まで、沖縄でインタビュー。『7000名のハルピン脱出』の著者で、ハルピン陸軍病院の院長 嘉悦三毅夫氏の英断により、病院に収容中の患者、職員7000名以上が、釜山を経て山口県仙崎港に昭和20年9月29日に帰還している。その中のお一人。
大正15年生まれ。インタビュー時、92歳。私の友人のお母様とハルピン陸軍病院で、一緒に働いていた。友人が大学生の時、お母様が、沖縄に住む金城さんの事を度々口にするので、思い切って沖縄に行き、新聞社に尋ね人の記事を書いてもらった。その日のうちに見つかり、それがきっかけで、沖縄と四国に住む二人の間には、電話と手紙によるやり取りが今も続いている。
家族は、姉妹5人と両親だった。、父親は大工だった。
高等科卒業後、那覇の県立看護学校に進んだ。卒業後、志願して満州へ行った。18歳だった。父が病弱だったので、子供の頃から家の仕事を手伝った。お金がないので、2年間、養成所まで片道4キロを歩いて通学した。親の苦労を見ていたので、お母さんを楽させたいと思った。同じ看護学校から7,8名で満州に行った。新聞に募集があって、みんなで「お国のために行こうね。」となった。博多から連絡船で釜山に行き、ハルピン陸軍病院にいった。日赤の看護師さんと陸軍病院の看護師は指揮系統が違った。日赤はレベルが高く指導的だったが差別はなかった。昭和18年から終戦まで働いた。伝染病棟で働いた。腸チフス、赤痢など。脳障害を起こす患者もいた。逃げないように注意した。バタバタ亡くなっていった。死後は軍医さんに連絡し、死後の処置をきちんとやってOKがでたら、別の場所に運んだ。このころはゴム手袋はなかったので、素手で行った。毎日仕事ばかりで、世の中のことは何もわからなかった。宿舎は病棟ごとに分かれていた。日赤は日赤で別だった。宿舎の夕食は当番制で作った。ロシア人の住宅を借り上げていた。6,7人いた。
病院には日本の兵隊が運ばれてきて、いつもいっぱいだった。部隊長が「ここでずっとできないから、身の周りの物をまとめなさい。」と言った。元気な患者さんはトラックでハルピン駅に一緒に行った。無蓋貨車にぎゅうぎゅう詰め込まれて、朝鮮に入った。どこかわからない所で終戦になった。全員貨車を出なさいと言われて、天皇陛下の玉音放送を聞いた。また貨車に乗り、南下。トイレは「何分停車」と伝令があった。死亡者は衛生兵がスコップで穴を掘って埋めた。南下、南下、、、釜山についた。皆梱包を送っていたが、私の分はなかった。空っぽだった。DDTを頭からかけられた。そして船を降り、博多に着いた。集まって解散式をした。全員、皆郷里に帰ったが、私だけ、沖縄には帰れなかった。仕方がないので2年間博多の陸軍病院に勤務した。負傷した兵隊さんを看護した。そして、22年に沖縄に帰った。帰ってみると、両親も姉妹4人も叔父さん叔母さんも、爆撃で亡くなっていた。家も無くなっていて焼け野が原だった。住み込みで働けるところを探した。看護師の仕事はなかった。寄宿舎があったので軍の中のメスホールで働いた。2年間くらい働いた。25年に結婚した。夫はやんばるにいたが、那覇に引っ越してきた。夫は軍の仕事、私は子育てをして専業主婦でやってきた。(2年前までは、ご主人の農業を手伝っていらしたらしい。)
看護師の教育隊があった。訓練などもやった。国民学校が終わっていれば、看護師の促成教育が教育隊によって行われた。2年間はかかった。