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証言 No.16,17,18,19さんの場合

2016年8月 北海道に住むサハリン残留邦人にインタビューお二人づつお話を伺う予定でしたが、話の流れでご一緒に4人の方からお話を伺いました。No.16,17さんは御夫婦。18,19さんもご夫婦。NO.17さんとNo18さんは兄妹。

​2019年8月、再訪。No.17さんはご病気のため、2018年に逝去。
No.16さん
 小さかったので、親から聞いた話。
 インタビュー時、64歳。両親は長野県の出身。父親は灯台守。兄はいろいろなことを覚えている。魚採りに小さい川に兄弟と行った。魚を手で捕まえたことを覚えている。家に池を作って魚を入れたら翌年も生きていた。野原で木の実をとったりしてロシアの子供と遊んでいた。母親とは日本語、父親とはロシア語、近所の子供とは、ロシア語だった。
1957年に頃、国籍取得。
 長男を連れて3人で日本に帰国した。今は、親戚が集まるとロシア語で話す。
 
No.17さん
 昭和19年サハリンのホントウ(南端に近い)生まれ。インタビュー時71歳。父親は漁師だった。5人兄妹、後からまた生まれた。父親が36歳、私は12歳の時、亡くなってからも近所の人が支えてくれた。終戦の時1歳5か月。父は南富良野出身、母は札幌出身。両親は3歳5歳の頃、親に連れられてサハリンに渡った。子どもの時、貝や蛸を干潮の浜辺で拾ったり、山ブドウを摘んで食べた。ポロナイスクに引っ越した。小さな村で魚を取ったりした記憶がある。浜で貝を採っていた時、大きな箱に鉄砲の弾がたくさんあったのを見つけた。
​お父さんが出稼ぎに行っているので帰って来るのを、お母さんと子供たちは待っていて、早期引き揚げ船に乗れなかった。
ノッコロの村に住んでいる時、弟が亡くなる。松の実を食べたのを覚えている。魚をたくさん捕ったら日本に帰れると言われ、父親は頑張った。魚採りで氷に落ちて亡くなった。みんな貧しかったけれど、みんな(ロシア人、韓国人)が支えてくれて学校にも行けた。
おかあさんは「日本に帰りたい」と毎日言っていた。お母さんが病気の時が一番辛かった。
 
No.18さん
 (2016年のインタビュー)1957年国籍取得。学校に行くのにも国籍は必要だった。姉妹がクリミヤニに住んでいるので、みんなで会いに行った。村に住んでいたので、街に行くと小さな子供たちから砂や石を投げられた。学校で仲良くなったらそんなことはなかった。幼稚園の保育士をしていた。私以外は全員ロシア人だった。お母さんは辛くて夜泣いていた。毎日同じお魚の弁当だった。
帰国直後、娘はストレスで体が動けなくなり車椅子になった。担任の先生がいい先生で、だんだん良くなった。それでも一度もサハリンに帰ろうとは言わなかった。日本語頑張って、今はロシア語忘れたようだ。
(2019年のインタビュー)

1953年、敷香(しすか)市(現ポロナイスク市)の反対側、ノッコロの村で生まれた。兄2人、弟2人。1957年にロシア国籍取得。学校に行くのにも国籍は必要だった。5歳の時に父親が亡くなり、母親は辛くて夜泣いていた。母親が働いている間、弟たちの面倒を見ていた。9歳でロシアの小学校に入学。村に住んでいたときはいじめはなかったが、街に行くとロシア人の子供たちから砂や石を投げられたりして、いじめられた。ロシアの中学校、専門学校を卒業し、25年間幼稚園の先生をしていた。他の先生は全員ロシア人だった。子どもたちに慕われ楽しかった。

1999(平成11)年に永住帰国。帰国後は市のロシア語講座を手伝い、1年後からは自分で担当している。帰国直後、娘はストレスで体が動かなくなり車椅子になった。担任の先生がいい先生で、だんだん良くなった。それでも一度もサハリンに帰ろうとは言わなかった。日本語頑張って函館の短大に入り、ロシア語と英語を学んだ。今は結婚して子どもが2人いる。

辛かったのは父親が亡くなり、母親が毎日泣いていたとき。一番幸せだったのは結婚して娘が生まれたとき。それと孫たちが生まれたこと。

No.19さん
 両親は韓国人。小学校は朝鮮学校。終戦前後、爆弾があちこちに落ちた話を両親から聞いた。みんな逃げる時、豊原の小学校に女・子供が避難しているところ(1階に日本人、2階に朝鮮人の女性と子供)、日本人が火を付けた。それをロシアの戦車がたくさん来て助けてくれた。母親は早期帰国の船で帰るところだったが、乗れないで待っていた。前の船が2隻爆撃されたので、帰るのを止めて戻った。6年朝鮮学校で中学校はロシア人学校。1963,4年の時、朝鮮学校は全部閉められた。ロシア人学校に2年通い、その後森林機械の専門学校へ行った。国籍がなかったのでそこしか行けなかった。韓国人はソ連の国籍を取る人は少なかった。北朝鮮の国籍を取りたくなかったから。卒業後は3年間国が決めたところで働かなくてはいけない、苦しかった。
父親は家族(妻、娘2人)から引き離されて、一人でサハリンの炭鉱に強制労働のため、日本政府に連れてこられた。その後、方針が変わり家族を呼び寄せた。おじさんは日本の軍隊に20年いた。帰国してからは酒ばかりの生活だった。
 終戦後、3年間逃げた。マヌエの加工工場で働いた。4歳の時、火災で財産を全部なくした。5歳の時、ポロナイスクに引越しした。みんな貧しかった。ある日父親が1キロお菓子を買ってきてくれた時はすごく嬉しかった。でも、9人兄妹だった。井戸から水をバケツで運んだ。父親は木材関係の仕事をしていた。夏休みをとって、草刈りやブロック組み立てをやったので、それを手伝った。専門学校に行っている時、お金がなくて1週間ご飯を食べられず水だけで過ごしたこともある。
 2年間給料が出ないこともあった。マフィアが横行していた。餓死した人もいた。
1994年ころの事。
 平成11年1月一時帰国。その年に永住帰国した。その前に母と兄弟で韓国に一時帰国した。母(72歳の時)は、40年経っていても、お墓までの山道を覚えていた。日本に来た当時は、挨拶しかできなかった。所沢のセンターで4か月間、その後、市の国際交流協会に毎週1回日本語教室に通った。従兄弟たちが日本語の勉強を手伝ってくれた。2年後、鉄骨工場の仕事に勤め、いじめがあり、ボーリングの会社に入った。2年で会社がつぶれた。その後野菜販売会社に入り、選別などし、フォークリフトの免許を取って、部長になった。今は裁判所や警察署で通訳をやっている。
 今、子どもは33歳。孫は小学校2年生。
 帰国のきっかけは、日本サハリン協会の人。
​【下の映像左からNO.16さん、NO.18さん、No.19さん】
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