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証言 ヨさんの場合

2015年11月 山梨県在住の中国残留邦人にインタビュー

 昭和4年生まれ。インタビュー時86歳。昭和15年4月12日、10歳で満州に行った。下関から釜山、ハルピンへ行った。両親と4人の兄弟で行った。弟は昭和17年に生まれた。大営開拓団。モロコシ、野菜、稲など作っていた。満州に行こうと父を誘う人があり、満州に行った。米はあまり採れなかったので、モロコシばかり食べていた。学校から帰ったら、馬に食べさせるための草刈りをしたりした。燃す木を山に取りに行ったりもした。学校では何を勉強したか覚えてない。体操の時間は匍匐前進をした覚えがある。父親は渡満後、すぐリウマチになり寝たきりになった。家族は1年間、本部にいた。その後、21年の11月に帰国できた。
 昭和21年、八路軍が来て、「16歳から20歳までの男女を20人欲しい。」と、言われ、16歳になっていたので入隊した。ロシアに連れて行かれるのではないかと思い1週間泣いた。ロシアに連れていかれることなく、陸軍病院で看護師の仕事をすることになった。注射の仕方を教わった。内戦が終わってなかったので、鉄砲の音も聞こえた。その後、ハルピンの衛生部に移動になった。陸軍病院に残っていた同郷の人4人は後に肺病になり亡くなった。その後南下し桂林まで行った。
 1950年に北京に帰って来た。1951年、除隊し中央貿易部の医務室勤務になった。お金もないし日本には帰れないと思って24歳で結婚。月を見ても山を見ても故郷や母を思った。日本の歌を歌って自分を慰めたりした。2年後、中学校の医務室に派遣された。北京でずっと暮らしていた。
 文化大革命の時は、朝6時から夜10時まで仕事した。神経衰弱になってしまった。
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