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​(13)葫蘆島・佐世保間の船員 細川さん

2016年8月28日から9月3日まで、北陸でインタビュー。宮岸さんが会長を務める北陸満友会の会員の方にもお声掛けしてくださり、現在の語り部の皆さんにお会いする事が出来、お話を伺わせていただきました。葫蘆島・佐世保間を往復した船員さんのお話ですとか、東安駅爆破事件の生き証人や新中国建設の息吹を肌で感じて来た方々など、これまで聞いたことのないお話で興味深いものでした。

 予定の時間よりも、1時間近く早めに来てくださり、お待たせしてしまいました。記憶はしっかりしていらして、細部まで覚えていらっしゃいました。船員として、引き揚げ船に乗っていた当時の印象、出来事等を伺いました。

 インタビュー時、88歳。昭和4年、東京生まれ。12歳の時父親が亡くなり、18年4月、14歳の時、渡満。義理の兄が満鉄参事、大連の岸壁の総監督をやっていた。その人を頼って行った。満鉄の大連本社に技術員の養成所があり、2年制に入り、昭和19年に海軍の特年兵に15歳で志願。武山海兵団に入った。シンガポールへ護衛艦隊に乗っていった。空船で南下、帰りは石油など積んで帰る。帰る途中、迂回している時、カムラ湾で爆撃、魚雷を落とされる。海に落ちた人を見殺しにした。最大船速で逃げるしかない。そんな経験を2回して生き延びた。終戦後は船に乗りたくなかったが、引き揚げ船に乗ることになった。10月1日、舞鶴港からフィリピンのマニラをピストン輸送。10か月間。その後、台湾各地と博多を5か月間ピストン輸送。その後4か月間、葫蘆島と博多をピストン輸送。葫蘆島は昭和21年9月ごろから(?)
 葫蘆島は島ではなく、望遠鏡で見ると、赤茶けた山砂があり、木造の建物があった。鉄砲を担いだ中国人が監視していた。タグボートからタラップを伝って船に上がってきた。引き揚げの人々は「兵隊さん、日本人ですか?これで日本に帰れるんですか?」「帰れますよ」と言うと、何十人もの人が(安心して)意識を失って倒れた。
 上陸前に船の中で検疫があった。料理方だったので、豚汁を作るのを子どもたちが見ていた。おこげを子供たちに振舞うと大変喜んだ。
ソ連に抑留されていた時、日本人を裏切った人をみんなで海に放り込んだという事はあった。フィリピンのマニラからの軍服には上着もズボンもPW(捕虜)と判が押されていた。アメリカの船のレーダーは立派だった。大和魂だけで勝てるものではない。私の船は紙一重で2回も助かった。台湾からの軍人は、階級章だけ外していた。ソ連の先兵隊は罪人でマンドリン持って来て、日本人は無抵抗だったので暴虐の限りを尽した。
 満蒙開拓は、大東亜共栄圏の確立という事で、領土の拡張、食糧増産、で、満洲を作った。と思っている。22年3月から42年間、北陸鉄道に勤めた。
戦後の教育は一変した。平和の有り難さ、戦争の悲惨さを若い人に伝えたい。
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