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証言  伊藤實(ニ)さん<シベリア抑留>

2015年8月 サハリン残留邦人 伊藤實さんに北海道でインタビュー

インタビュー時87歳。3歳の時、父親の転勤で酒田から樺太の野田町(チェホフ)へ。44年ぶり、69歳で帰国。直後に花巻で3.11震災に会う。その後、札幌で生活する。

 国民学校、高等科、15歳まで学校に通っていた。泊まりで機関紙見習いになり18歳で機関士になった。戦争になりみな徴兵されたが、機関士だったので残された。

 終戦後は、ソ連軍の命令で働かされた。翌年昭和21年の6月に事故。働きづめで睡眠不足、空腹で居眠り。目が覚めたらカーブ、信号が赤だったところを間に合わず入ってしまった。バックしたがその後、軍に呼ばれ後ろ手にされ罪人にされた。3日目豊原(ユジノサハリンスク)の刑務所に入れられた。6か月後、夜中に起こされ連れ出され、夜中に軍事裁判。通訳付き。2年6か月の刑。車に乗せられ大泊(コルサコフ)に。船でウラジオストクに連れて行かれる。それからハバロフスクへ。シベリアの収容所で森林伐採を2年。黒パン1日700グラム。仕事を120パーセントやると120グラムくれた。40代50代60代の日本人が多かった。

 その後カザフスタン送りに。カザフスタンまで2週間かかって移動。途中でパンが無くなる。荷車の柱にしがみついて移動したり。「1分もかからないで話しているが大変だった。よく生きてた」 親切にしてくれたロシア人もいた。

 カザフスタンでは、自分で藁を使って寝床を作らなくてはならなかった。食料はジャガイモ10キロのはずが、腐ったジャガイモの山から直径2センチほどのジャガイモを2キロくらいしか貰えなかった。風呂はなかった。最初は牛の世話をして、その後逃げて山に行き、見つかって、ボイラーの仕事に就くことになった。やっと給料が貰えるようになり、ドイツ人と結婚。38年前、自分が50歳の時、妻は亡くなる。3人の子供はロシア語。自分でもだんだんに子供の勉強を見ながらロシア語を覚えた。

従姉妹と子供の頃、葉書のやり取りをしたことがあり、その住所を覚えていた。ペレストロイカが始まってから、従兄弟の住所を覚えていたので手紙を出した。日本に帰りたいと大使館にも手紙を書いた。長女も次女も母親の国であるドイツに行きたがった。子供たちは母親のドイツの籍になっていた。

 63歳で一時帰国し石巻、酒田にも行った。昔の同僚の機関助手にも会った。ずっと日本で暮らしたいと思った。

 44年ぶり、69歳の時、永住帰国。大震災に会う。津波に合い、逃げられず、泥だらけで一夜を過ごす。山の上で避難生活が始まる。(この間、支援団体が必死に探す) 2週間後、仙台から東京に行く。それから4月5日に札幌(知事の配慮)に着く。4月下旬、心配しているドイツの娘に会いに行く。娘たちが赤十字に頼み、ドイツに住むことができる手続きをしてくれた。しかし「日本で生まれたんだから、日本で死にたい」と日本に帰ってきた。

カザフスタンでは「日本に帰りたい」一心だった。助かってよかった。

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