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​(45)【台湾】元日本兵。インパール作戦から奇跡的に生還

元日本兵。インパール作戦から奇跡的に生還

【昭和の始め頃の台湾】

 私の年は92歳です。1926(昭和元)年の生まれです。

このころの頃の台湾は、日本の植民地だったから、台湾人に対しての差別がありました。身近なことを申しますと、例えば、日本人が勉強する学校は「小学校」で、台湾人の勉強する学校は「公学校」でしたから、日本人の子供の勉強する学科は、台湾人の子供の勉強する学科とは少し違っていました。それが故に、差別っちゅうもんがあって、それも仕方ないかと思いますけど。と言うのはね、日本人の子供はみんな日本語で、日本の歴史とか、全体的に台湾の子供より進んでいましたから、その点では仕方ないと思います。当時、戦争に巻き込んだっちゅうのは、台湾における教育は、みんな「愛国、愛国」っていう意識を持つように躾られていたから。

 私の父は、早くに亡くなって、その後母が再婚したので、祖母に育てられましたが、祖母の経済状態は良くなかったから、「公学校」を出て、先生の援助で、新竹(シンチク)中学校にかろうじて合格したけど、それは1学期しか勉強できず、戦争が勃発した時は、僕は学校に行っていなかった。そしたら、先生に呼び出されて、ぼろくそに叱られて。僕は、先生に学費を援助して欲しかったけど、それが言えなかったので、「勉強が嫌だった。」と嘘ついた。すると、先生が、「無尽会社」っていう、日本の頼母子講みたいなところですが、金融会社を紹介してくれたので、そこに入りました。その間、戦争が始まって。その時は、みんな「愛国」って言って盛り上がってね。「みんな国を愛する」っちゅう事がブームだったから、私、兵隊に志願したの。

【兵隊に】

当時、軍属として志願したんです。300名の志願軍属募集に、3000名以上の希望者の中から、私はかろうじてパスして。10倍という凄い倍率でした。当時、配属先は、軍のほうでは発表しないですから。私は17歳で、シンガポールへ送り込まれ、そこで、3か月の軍事訓練受けた後で、今はミヤンマーといいますが、ビルマへ送り込まれました。

【ビルマで】

 ビルマでは、方面軍司令部の配属になって。そこで約1年ちょっとおりました。その間に、僕たち初年兵は、下士官に、毎日、3食の兵食を持って行く「飯上げ」をしないといけない。18歳の時、「現地志願」っていうのができるようになったの。どっち道、兵隊になるからという事で、「現地兵隊」として志願したんですよ。これまでの軍属から兵隊に変わった訳です。兵隊に志願したのに、やっぱり、下士官に「飯上げ」をしなければいけない。ある軍曹は、「飯上げ」の時、僕たちに「チャンゴロ」と言った。ひどいでしょ?それはもう飲み込めないでしょ?同じように「お国のために」と、僕たち志願して、「何でそういう侮辱をされないといけないんだ。」と。この件では、僕は、どっちかっていうと、率先して抵抗した一員だったので、これが事件になって、私は方面軍司令部の配属から異動させられて、第15軍に配属になりました。

【インパール作戦】

 そして、「インパール作戦」が始まりました。第15軍司令官、牟田口廉也中将の配下に属して、そこでインパール作戦に加わりました。本当にひどかったですよ。10万人の日本兵士のうち、生きて帰れたのは3万人、残りは、飢えと渇きと病気で亡くなったという、かろうじて僕もね、死ぬ間際だったの。《続きは、近刊『WWⅡ 50人の奇跡の証言集(仮称)』》

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