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​   (12)北陸満友会会長 宮岸清衛さん

2016年8月28日から9月3日まで、北陸でインタビュー。宮岸さんが会長を務める北陸満友会の会員の方にもお声掛けしてくださり、現在の語り部の皆さんにお会いする事が出来、お話を伺わせていただきました。舞鶴・佐世保間を往復した船員さんのお話ですとか、東安駅爆破事件の生き証人や新中国建設の息吹を肌で感じて来た方々など、これまで聞いたことのないお話で興味深いものでした。

以前から宮岸さんのホームページを見せていただいており、何とか連絡を取りたかったのですが、ホームページから連絡を取る事が出来ず、半ば諦めていたら、土壇場で幸運にも連絡をとる事が出来ました。

​コミュニテーセンターを借りてくださったり、語り部の皆さんに連絡をしてくださったり、お弁当を用意してくださったりと、何から何までお世話になりました。この経験を語り継いで行かなくてはいけないという思いは強く、初対面ながら、親戚の叔父さんに甘えるように、ご厚意に甘えさせていただきました。ありがとうございました。

昭和10年生まれ。インタビュー時81歳。母親は満洲から金沢に自分を生みに戻った。父親は昭和8年頃徴兵。現地除隊後警察官になった。中野学校の全身の中野無線学校にいた。いうなればスパイだった。
古北口に住んでいた。赤塚不二夫の父親と同じところにいた。帰国後数年前にお孫さんと会った事がある。小学校4年で終戦。黒川(鉄道の最終駅)にいた。スケートをして遊んだ。スチームからお湯を撒いてスケートリンクを作って遊んだ。2,3人中国人、朝鮮人がいた。在満国民学校。朝日新聞に書いてもらって、同窓会もやった。家にはペチカがあった。日本に帰る船が沈没させられていたので、帰らない方がいいだろうと父親は行っていた。8月9日に馬に乗って「避難した方がいい」と。お米、債券、通帳を持って北安(ペイアン)の官舎に入った。1か月弱いた。父親は14日に歩兵部隊に入り、シベリアに向かって歩くが、3日後に脱走した。
石橋信夫(大和ハウス会長)の手記に父の事が書かれていた。ソ連兵の略奪暴行が日常茶飯事になった。小学6年生の子どもが強姦されるのを見た。泣き叫ぶので腹を銃剣で突かれ死んだ。南下を決め、汽車を雇った。長春まで行った。小学校で一時避難していた。そこで5歳の妹は伝染病で亡くなった。父は松葉杖を使って障碍者を偽装し、日本人狩りを免れた。密告が心配だったので、2家族で官舎を借りて入った。屋台で饅頭売りをしたり、薪泥棒をした。近くに石炭があることを知り、石炭堀りをして売って生計を助けた。11歳だった。弟2人も病気と栄養失調でなくなった。両親は息消沈して暮らしていた。万頭を盗んだりして暮らすうち、子どものグループが出来、家に帰らなくなった。安いものはお金を出して、高いものはかっぱらって食べた。孤児の仲買人と知り合った。片棒を担いだりした。ある日、家に帰ったら、両親の置手紙があり、「日本に帰国する」と。駅に走った。新京の駅の構内も走り、2,3キロ走り、留まっていたかまぼこ列車に飛び乗った。汽車が泊まった場所が、仲買人の知人の家だった。食べ物をたくさん持って来てくれた。3,4日して葫蘆島に着いた。すぐに出発した。21年の8月に帰国。父親は肺結核で亡くなる。母親が介護施設に入って、満洲の話を聞き出したのがきっかけでホームページを立ち上げた。
​能登半島に住む友人の勧めに従って、「こういう事実があった」という事を「事実として」伝えたい。
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