アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
証言 モさんの場合
2016年1月 東京都でサハリン残留邦人にインタビュー
I939年生まれ。北海道中頓別(なかとんべつ)生まれ。両親は3人の子供を連れてサハリンに仕事をしに行った。上の2人の子供は祖父に預けて行った。父親はサハリンの炭鉱で働いていたようだ。その後5人弟妹が生まれた。「サハリンに親戚もないので、兄弟で助け合っていけるように」子供が多かったそう。
終戦直後、いつの間にか友達が家族ごと居なくなった。家の中はそのままで。うちは子どもが多く、港まで歩けないのであきらめたようだ。朝鮮人に子どもを預けて(捨てて)船に乗った人もいたそうだ。船に乗れる人数は限られていたが、乗りたい人はサハリン中の日本人で、乗船は大変だったようだ。サハリンの内淵(ないぶち)、ロシア語でブイコフ炭鉱にいた。ソ連軍はいつの間にか来て支配していた。
終戦後は、朝鮮人学校に行くようになった。よくいじめられたが、1年ですぐ朝鮮語は覚えた。いじめもなくなった。ロシア語は週に1,2時間。その後はロシア人学校。その学校には、捨て児がたくさんいた。かわいくて頭のいい子ばかりだった。朝鮮語をしゃべり、朝鮮名で呼ばれていた。25歳のとき結婚した女房も、シベリア残留孤児だった。写真をテレビに出してもらったが親は見つからなかった。
ロシア国籍がないと、隣町に行くのも不便だったので、取得した。国籍がないと部長には
なれても社長にはなれない。 ソウルオリンピックのあと、ロシアで韓国語の通訳が必要になり、通訳の仕事で引っ張りだこになった。キリスト教会の仕事、車の会社など、8年くらい通訳をやった。当時住んでいたロストフから50キロくらいモスクワ寄りの地で、ドイツから帰って来るロシア軍のために街を作ることになった。ドイツがお金を出して、朝鮮の建設会社が作ったが、違約金が膨らんで、会社が潰れてしまった。仕事が終わって、ちょうど年金暮らしが始まった。
若いときは暮らしのために一生懸命だったが、年を取ると家に帰りたい。一時帰国に来たら、日本に帰りたくてどうしようもなくなった。ロシアでは医療も大変。ソ連時代は日本から来た人に手紙を頼んで、日本で出してもらったこともあった。
2004年一時帰国。2006年夫婦で永住帰国。日本に来てから、いろいろな文化の違いがあり、戸惑うこともあるが、一つ一つ勉強。今までで一番大変だったことは、子どもの頃、妹たちがたくさんできて、暮らしが大変だったこと。朝起きたら、自分の靴を弟たちが履いて行ってしまって、靴がないこともあった。親も全員にゴム靴を揃えることができなかった。一番幸せだったことは、娘も息子も結婚し、少しは子供たちを助けることができるようになったこと。