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​(8)麻山事件の生き証人 鈴木幸子さん

2016年8月 北海道に住む早期帰国者にインタビュー。

昨年、北海道に滞在している時に、NHK北海道の戦後特集番組で、麻山事件を取り上げているのを見ました。その生き証人に会いたいと思い、帯広の下の方の大樹町に住む日本語教師で童話作家の友人に手がかりを知っているか問い合わせました。すると、彼女の高校の恩師とその同僚の先生が、私のホームページを見てくださり、献身的に協力してくださいました。そんなことで実現したインタビューです。

​昭和11年生まれ。インタビュー時79歳。北海道広尾町生まれ。父親は今の農協で仕事していたようだ。牛を飼っていた。いろいろな役をやっていて嫌になって満州に行くことにしたようだ。昭和17年頃、一家族だけ、祖父を残して渡満した。佐世保(?)から釜山港に行って、ハタホ開拓団に行った。
二軒長屋に住んでいた。二人の兄と一緒に国民学校に通った。終戦前はお米も食べていた。防空壕に入る練習は時々していた。アヒルが近くにいた。中国人の祭りなども見た。食用ほおずきがも食べた。
父親は徴兵検査で落ちたので、根こそぎ動員にはならなかった。敬寧に出張していた。3年生の夏終戦。終戦時は二八車に荷物と一緒に載せてもらい、何台も連なって避難した。父とか大人の男の人はトラックで行った。11日は雨だった。林口を目指していた。ぬかって疲れ切って休んだところで、「皆さん、僕が道案内をしますから、後からついてきてください」と言ってピストル自殺した。集団自決前に、山道を先に行った人たちは助かった。満人部落で食べさせてもらって助かった。小高い山の中腹が微かに斜めになっていた。白い布を裂いた鉢巻みたいなものを渡され、みんな目隠しした。ひざまずいて坐らせられ、山の上からと下から、鉄砲で挟み撃ちにされた。運よく弾が当たらなかった。翌日、満人が布を剥ぎにきた。私たちは満人の家に連れられて行った。おばあちゃんが一人いたが「ダメ」と。5人の子供が助けられた。後から2人も助けられた。妹と離れ離れの家に貰われて行ったが、妹が泣いて泣いて困って、自分と同じ家に貰われてきた。その家に4年弱いた。お正月には餃子を作って食べた。ハタホで知り合いだった朝鮮人夫婦の家で掛け算の勉強などした。ソ連の国境近くから避難して来た人がいた。その人がハルピンの収容所で偶然父に出会い、私たちの事を話した。父は病気を治して、迎えに来た。3年8か月かかった。早期帰国の時、父親は、子どもが生き残っていることを聞いていたので、日本に帰る事が出来なかった。最初に父が迎えに来た時、妹は父を怖がって行かないと頑張った。自分は父だということはわかっていたが、日本語が出てこなかった。養母は泣いて帰さないと。汽車に乗るのに押し問答をした。何年かたって、牡丹江に養父母は会いに来てくれた。内科医の家でお手伝いをしていた。牡丹江の紡績工場で3年くらい働いた。帰る機会を待って、天津の近くのタンクから舞鶴に引き揚げた。舞鶴の松の木が綺麗で感動した。その後菜の花畑があんまり綺麗で、そばまで宿舎から歩いて行った。14歳くらいになっていた。帰国後、開拓団の先生が帰国していることがわかり、訪ねて行った。
若い方に伝えたいこと。戦争すること、自衛隊を出すことは、いけないということを言いたい。
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