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(20)沖縄戦 戦争孤児 コザ孤児院 神谷洋子さん

2017年1月20日から2月2日まで、沖縄でインタビュー。

​昭和11年生まれ。沖縄戦で孤児になり、たった一人で戦場を彷徨う。コザの孤児院に保護され、栄養失調で死線を彷徨うが、助けられる。養女になるも、馬車馬のように働かされる。売れ残りを野菜を売りに行った家が偶然にも親戚の家だった。紙一重で幾多の危機を乗り越える。現在は、語り部として積極的に活動している。沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリートⅡ」で、神谷さんのお話を聞かせていただき、インタビューが実現した。

​昭和11年生まれ。インタビュー時80歳。4,5歳までは津堅島で育ち、その後那覇に引っ越した。父の写真は見たが、記憶にない。7歳で泊小学校に入ったが、1944年4月、5月には空襲があり、翌年の4月には部落の人たちと南に逃げた。日本軍は守ってくれず、逆にじゃまにされた。壕の中に入って入ると、自分たちが入る為に住民は出された。何処を歩いても死体だらけだった。
南風原の陸軍病院のあたりをさまよった。私は弟を負んぶしていた。母親はひめゆり学徒の手伝いをした。いつでも逃げられるように、いつも入口の側にいた。母が、「よーちゃん、こっち来なさい。」と言ったので、「ハーイ!行きますよ。」と言った直後に艦砲射撃があり、わき腹を見ると傷になっていた。母親の一言で助かった。ひめゆりの人は亡くなった。母と弟のすがたはどこにもなかった。肉片が飛んだり首がコロコロしていた。入り口を叔父さんが開けてくれて、手を掴まれて外に出た。それからは一人で戦場をさまよった。傷からウジが湧いた。みんなに「あっちへ行け。」と言われた。お墓の骨壺を出して、その中に入って寝た。
(略)
 
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