アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
証言 三浦正雄(ト)さん<シベリア抑留>
2015年8月 サハリン残留邦人三浦正雄さんに北海道にてインタビュー。
サハリン(樺太)生まれ。インタビュー時83歳。
サハリンからマリンスキー刑務所、カザフスタン送りになり、2002年帰国を果たす。
サハリンで生まれ育ち、終戦時13歳。父は炭焼きをしていた。5歳の時、母親死亡。父再婚。長兄は徴収され沖縄で戦死。兄二人も徴兵される。一人はシベリア抑留3年で帰国。一人は徴兵されるが、戦地には行かず。
終戦後、ソ連軍を恐れ、知人と北海道に逃げた。父や兄姉も北海道に来ると思って待つが、来ないので、家族を探しに樺太に行った(1946年)。国境警備隊に捕まり、1年6か月の懲役。真岡(ホルムスク)からマリンスキー刑務所に。生ジャガイモと固いパンと過酷な労働。「日本に帰りたい」というと「3年間はソ連に労働奉仕しなくては帰国できない」と言われ、カザフスタン送りに。1948年8月イリ駅に。「5月1日」という名前の集団農場の副所長に助けられ面倒を見てもらったが、その人が3か月で急死。彼の上司が集団農場の漁業部門を紹介してくれた。1959年代、イリ駅に日本人の輸送列車が通る。乗りたかったが「乗れるのは日本兵の捕虜だけ。捕虜以外は乗ることはできない」と言われる。1962年、運転免許取得のため、やむなくソ連国籍を得る。ドイツ系女性と結婚し、1男1女。1968年、モスクワの赤十字に知り合いを通じて「日本に帰りたい」と家族探しを依頼。1年後、兄から手紙。自分の手紙も日本に届いていた。しかし、外務省やKGBを恐れ、また服役したくなかったので、手紙には「日本に帰りたい」と書けなかった。1980年に新聞広告に乗っていた日本旅行の募集広告をみて申し込んだ。近くの町で開かれていた展示会で日本語のできる商社マンに兄への手紙を託した。こうしてKGB監視下の観光後、船で兄に会うことができた。通訳付きで20分だけ。翌日仮病を使って観光に行かず、船を抜け出し兄に会うことができた。通訳なく、「ゲ・ン・キ・デ」とカタカナで兄が腕に書いてくれた。これだけしかわからなかった。兄とはこれが最後だった。
その後、手紙が来ることはなかった。
1991年ソ連崩壊、年金の遅延、物不足、医療制度の崩壊、、、
1996年妻が倒れる。医療費が足りず、すべてのものを売る。2002年、大使館の方が来たので相談し、「日本に帰りたい。」と伝える
2001年、一時帰国。2002年、永住帰国を果たす。
帰国後すぐに妻は手術を受けることができた。