アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(49)【台湾】友愛会代表 張文芳老師 <工事中>
2018年1月から2月まで、台湾でインタビュー。
【幼少の頃】
1929(昭和4)年、アメリカの株価の大暴落、世界的大恐慌があった年に、私は台湾の桃園(トウエン)で生まれ、今年89歳になります。昔の桃園は小っちゃな町で、老街(ロウガイ)という所に住んどったわけですが、当時は人力車の時代。今の空港の辺りが海水浴場なんですよ。小学校の夏休みに、そこの林間学校に行って海水浴なんか楽しんでましたよ。今はめちゃくちゃ発展してね、全く面影がなく、私も道に迷っちゃうので、タクシーで行きましたけどね。
1935(昭和10)年、6歳の時、父の貿易の関係で、大阪府豊能郡(ほうのうぐん)中豊島村(なかてしまむら)字服部(あざはっとり)へ行ったわけです。田舎ですが、「阪急線」なので、大阪の梅田から十数分で行けるとこかな。私の家のまわりは田んぼ。服部は戦後、豊中市に編入されて、今は住宅で埋まっちゃって。
1937(昭和12)年、支那事変が勃発したんです。私は8歳で、中豊島小学校に入学しましたが、一時、台湾に帰りました。小学校2年生の時、桃園の小学校に編入したわけです。小学校では、日本人並の教育をすれば良いので、特に,日本語を教える必要はないんです。だから、その前に、日本語で会話ができないといけないから、台湾人がそこへ入学するって言う事は、よっぽどの素封家(=大金もち)とか、日本通、日本に非常に親しい関係のある人でないと、無理なんです。我が家の場合は、「日本帰りだ。」という事で入れました。
私の父親が、1902(明治35)年、名古屋商業出てるんです。1895(明治28)年日清戦争終了で、台湾が日本に統治を受けた年。当時は、父親も母親もみんな日本人として生まれとったわけです。だから、日本行くのに、パスポートも何もいらんし、切符さえあれば、いつでも行かれる時代でした。
1940(昭和15)年、紀元(皇紀)2600年に、小学校5年生の時、日本に戻って、元の小学校に転校ました。私の姉が、奈良県の女学校に合格したので。
新竹州(シンチクシュウ)というのは、日本の県ぐらいの大きさなんだけど、この州は、今は、桃園市、新竹県、新竹市、苗栗県(ビョウリツケン)の4つの自治体に別れている。こんなに広い中に、中学校も高等女学校も1校だけ。抜群の成績をとってない限り、なかなか受からない。うちの姉も不合格になって、桃園にあった天理教の教会の宣教師から、「お嬢さん、入学試験があります。こちらでも受けられますよ。」っていう話があって、台湾で受験し合格したんです。
翌年、1941(昭和16)年12月に大東亜戦が勃発で、その翌年、1942(昭和17)年に、私は天理中学校に入学したわけです。私は、豊中中学を受けたかったんですが、父親は、日本に残るべきか、台湾に戻るべきか、非常に迷っていたらしいんですね。支那事変が勃発した時も、一旦、台湾に戻ったのは、万一の時は、自分の身内、親戚のおるところの方が、心理的に安心だから。支那事変は長期戦に入りましたが、大東亜戦が始まった時も同じような考えで、私と姉を日本に残して、外の家族は全員台湾に引き揚げたんです。私は「置き去り」にされたような状態なんだけど、親父なりに、危険分散って事を考えたのでしょう。どっちにしても、日本の政府が人民をないがしろにすることはないけど、日本の生活は、もう困窮するような状態が始まっていたんです。
大東亜戦の前から、物資がどんどんどんどん不足して。当時のABCD包囲網が。Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダ、後はフランス、ソ連もあるし。それから包囲され、経済的封鎖が始まってた。民衆に、直接影響があるのは食料です。食料困難が始まるの。配給が始まって。だから、日本にいても、どこか街の旅行先や外出先で買いだめしていた。「買いだめは止めましょう。」って国策でしたが、そういう時代があったわけですよ。
1942(昭和17)年に、私と姉以外、家族は台湾に引き揚げました。台湾だったら、まだ物資が豊富だし生活はやりやすいから。その年の1月から、衣料品の配給制度が始まったんです。靴下でも、肌着でも、生地でも、「衣料切符」で。
【創氏改名と学徒動員】
日本語も話せない家庭に「創氏改名」を強いても意味がないと思うんだよね。私達は日本通だっていう事で、自然的に「創氏改名」したと思う。
私は、小学校2年生の時、「豊島文男(トヨシマフミオ)」となった。その「豊島」には、2つの意味があって、大阪の住んでた所、「中豊島村」の「豊島」、そして、台湾は豊かな島という意味の「豊島」、「文男」って言うのは、私の張文芳(チョウブンホウ)からきた。そういう意味合いです。《続きは近刊予定 『WWⅡ 50人の奇跡の証言集(仮題)』で》