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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(4)早期帰国者(1958年) 可児力一郎さん
『風雪に耐えて咲く寒梅のように 二つの祖国の狭間に生きて』を信濃毎日新聞社より 2003年11月出版。現在は近隣の学校に呼ばれて戦争体験などを話すことが生きがいになっているとのことです。 2015年11月長野県でインタビュー
1932年飯田市生まれ。弟妹両親と5人家族で満州に行った。小学校3年の時。父親は飯田市で郵便配達をしていた。山仕事の方がお金が取れるので東村に移った。満州に行くのは嫌だったが、満蒙開拓なら兵役の義務が免除されるので、説明を聞きに行ったら、「広大な大地、家も土地も用意してあるから」と言われた。妹が生まれて1か月で、満州には行けないと断りに行ったら、「断ることはできない。断ったら配給を止める」と言われ、行くしかなくなってしまって行った。移民すれば1000円貰えるはずなのに、読書村は一人当たり20円で、5人分100円しか貰えなかった。
現地の家を安く取り上げて私たちを送り込んだ。水も買って飲んでいた困難極まる地獄生活だった。食べる物にも事欠いていた。家を追われた現地の人は小屋を建てて別の所に住んでいた。
2キロ離れた小学校に通った。1943年からは授業半分、農作業半分で、大豆を作っていた。1943年からは、兵役の義務が復活し先生方も招集されていなくなった。父親は8月10日現地根こそぎ召集された。何処で亡くなったか未だにはっきりしたことはわからない。
8月13日夕方から逃避行が始まる。何度も襲撃に会い血だらけの逃避行だった。私は中学1年13歳だった。8歳の弟、3歳の妹と母。ソ連機の機銃掃射も受けた。牡丹江を渡るとき、「このまま自分は置いていけ」という老人もいた。その後、ゴドガシで怪我をした兵隊さんが中心の手りゅう弾による集団自決があった。子供たちを川に流す人もいた。自分の体を操るだけで精いっぱいだった。
夜間行軍しながら、木の葉っぱと水だけで方正の避難所まで歩いた。自分たち3000人とイカンツウ開拓団(鹿児島)の600人で、寿司詰め状態だった。
9月でも零下になった。食べ物もなくバタバタ死んでいった。長野5開拓団、埼玉1開拓団、岩手2開拓団、鹿児島2開拓団。全部で9000人あまり。そのうちの4500人が亡くなった。生きるために中国人の家庭に入った。
4人一緒に受け入れてくれる家に入った。農作業、家畜の世話に明け暮れた。学校には行けなかった。独学で勉強した。日本からの通達があっても、中国人家庭は握りつぶして本人には知らせなかったから、みんな日本に帰れなかった。18歳くらいから大工の仕事の見習いをさせてもらった。帰国2年前に同じ残留孤児同士で結婚した。人民日報からしか日本の事を知ることができなかった。いいことは書いてなかった。養父は帰国する3年前に亡くなった
1958年最終の引き揚げ船 白山丸で永住帰国した。
帰国後、住む場所もなく、最初叔父の家の蚕室で暮らした。身重の妻には大変だった。次にトイレも台所もない水車小屋。仕方なく1軒家を引き揚げ者交付債権5万円で買った。日雇い拾い仕事をして食い繋いだ。「赤」扱いをされ刑事が来た。身の上話をしたら、わかってくれた。
長年営林署に勤め、退職後、檜の箸作りの会社を始め、今は子供や孫も働いている。
弟は1966年、妹は1969年に永住帰国。
防毒面(マスク)を日本兵が携帯している理由。万宝山ではたくさんの中国人が犠牲になった。御岳でも強制連行した中国人を発電所工事に従事させていた。木曽だけで3971人が強制連行され183人が犠牲になった。慰霊碑がある。
一番つらかったのは、方正の避難所での生活。幸せだったのは、今、各地で講演に招かれて歴史を伝えることができたこと。
平和の大切さを若い人に伝えたい。
1994年元開拓団跡地を再訪したが、変わってなかった。
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