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証言 No.41さん残留婦人

2017年1月20日から2月2日まで沖縄県に住む中国残留婦人にインタビュー。

​大陸の花嫁だった。インタビューは「顔は写さないで。声だけならいいですよ。」ということでした。娘さんが近くに住んでいて、毎日お世話に来てくれている様子。

1922年生まれ。インタビュー時、95歳。読谷村生まれ。両親と兄弟6名だった。15歳から20歳まで、大阪の岸和田の紡績工場で働いていた。貧乏に生まれたので、金持ちになろうと思って大陸の花嫁に行った。第1次義勇隊の花嫁募集に応募した。昭和17年11月に渡満。東安省の花嫁訓練所に行った。1か月間陸軍病院で看護の講習をうけた。長野、沖縄、福島の花嫁と一緒に訓練を受けた。中国語も学んだ。共同生活をしていた。各部落に引っ越しをした。夫は20年4月に根こそぎ動員。子供は2人。2歳と、5か月の息子だった。

8月9日、ソ連が攻めて来たので、山の奥に入って行った。終戦直後は、日本人は殺された。山の奥に隠れていたから助かった。火を燃やすと煙で見つかってしまうので、火は燃やせない。9月30日まで、何も食べなかった。死んだ兵隊から水筒をとって、水だけを飲んで生きていた。9月30日に、ソ連兵と日本の兵隊がいた。降伏を促され、兵隊の宿舎に行った。収容所(学校)はコンクリートで板も何もない。草をとって来て袋に入れて、その上に寝る。11月になると、夜は凍えた。中国のおばあちゃんが毎日来て「寒いからついてくるといいよ」と言われ、ついて行ったら3人の息子がいて、次男と結婚した。5人の子供が生まれた。子供は可愛い。食べ物が少なくて、苦労して育てた。

国交回復の新聞をヒト他の人からもらってきて読んだ。一時帰国で半年日本に来た。生活も良くなって、一人で帰ってきた。帰って来た時、日本の兄弟は全員元気だった。沖縄戦の時、山に隠れていて助かったそうだ。60歳(1981年)の時、永住帰国した。主人は、その前に亡くなっていた。兄弟のお世話になって、子どもと、子どもの家族を全部帰国させた。苦労したけれど県営団地に入れてもらってよかった。孫たちは虐めもなく大丈夫だった。日本語の勉強も特にしないで、大丈夫。大家族だから寂しくない。

 

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