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No.9 奥山朋子さん ( 『孤児編 下』証言41) 奈良県

「向こうでいい生活していたのに帰って来て、こんなふうに困るとは思ってなかった。今の楽しみは、学校に通うこと。春日中学夜間学級(1時~5時)に行ってるでしょ。今勉強しているのは、日本語ですね」

 

中国在住57年 戦後在住55年 一時帰国後17年で永住帰国

(​お詫び:申し訳ありません。一部失ったデータがあり、見られない所があります。取材に協力してくださった帰国者、支援者の皆様には、心よりお詫び申し上げます。)

証言者のプロフィール

1943(昭和18)年 内モンゴル自治区ハイラル市で生まれる 祖父母、両親、姉と兄2人の8人家族

           父はハイラル市で寿司店を開いていた

1945(昭和20)年  2歳 5月に父が召集される 終戦 ソ連軍の襲撃で、祖父、母、姉が死亡

           祖母、兄2人、お手伝いのかね姉さんと共に逃避行 途中蒙古兵の襲撃に遭う

           長兄と2人残されたが、それぞれモンゴル人に助けられる

           モンゴル人老夫婦の娘の養女になる(パオに住み遊牧生活) 長兄は養子先で死亡

1960(昭和35)年 17歳 師範学校に入学、卒業後、小学校の教師になる

1963(昭和38)年 20歳 モンゴル人と結婚(子どもは5人)

1983(昭和58)年   4月 40歳 夫、次男、娘と共に4人で一時帰国 

           その後山口県の「婦人の会(*)」に招かれ、2回、団体で帰国

1997(平成9)年  12月 養母が亡くなる

2000(平成12)年  8月 57歳 夫、次男家族と共に6人で永住帰国(国費)

 

インタビュー 2016年4月19日 73歳 場所 証言者の自宅

 

() 山口県に拠点を置く「中国残留婦人交流の会」で、日本に身元引受人のいない残留婦人たちの一時帰国を支援する活動をしていた。代表者は山田忠子さん。国の残留婦人に対する支援の遅れを憂い、1989年4月から1999年までの11回にわたり、毎年4~6名の残留婦人を日本へ招待した。

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