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​(21)白梅学徒隊 宮平義子さん

2017年1月20日から2月2日まで、沖縄でインタビュー。

​白梅学徒隊は県立第二高等女学校、55名。同窓会誌の名前が「白梅」だった。有名なひめゆり学徒隊は、県立第一高等女学校(65名)と沖縄師範学校女子部(157名)。その他にも、県立第三高等女学校(10名)は、名護蘭学徒隊、県立首里高等学校(61名)は、瑞泉学徒隊、私立積徳高等女学校(65名)は、積徳学徒隊、私立昭和高等女学校(17名)は、梯梧(でいご)学徒隊と呼ばれていた。

 昭和4年生まれ。子供の頃はやんちゃで、家の近くの映画館で手毬つきや縄跳びや鉄棒などで遊んだ。父親は商船会社に働いていた。食べ物は不自由なかった。小学校卒業後、高等科2年を出て、第二高等女学校に進んだ。師範に行っていたら、今いない。兄は16年に満蒙開拓義勇隊の隊長として勃利に行った。現地召集で兵隊に行き、シベリア送りになって、29年ごろ沖縄に帰ってきた。下の兄は南方に行く前に、いったん親に会いに来た。沖縄に帰ってこられた。二人の姉も、満洲に行った。襲撃にあって、応戦し、男の人は外に出された。出ると同時に銃声が聞こえた。見な殺された。即死だった。死体は牡丹江に流された。私たちは逃げたが、ソ連の部落で1晩泊った。畑に食べ物を盗りに行った時銃撃が始まった。動けなかった。父は生きていて、そこにいた。銃を構えた現地人に閉じ込められて捕虜になった。

(話は戻って)沖縄に軍がどんどん入って来て、女学校では法師作業が多くなった。週に2回は授業もあった。校舎は兵舎になった。昭和19年の10月10日、朝7時半に空襲警報。7時ごろから空爆な始まった。港の燃料が爆発した。1時過ぎころ「逃げなさい」志木那の森に逃げた。軍の壕に入れてもらった。4,5日いた。その前に親戚の家の壕にいた。ドカン!となって、みんな失神した。至近弾が落ちた。周囲の家は皆なくなっていた。1軒やを探して、そこで共同生活をした。女学校も丸焼けになった。那覇市は10月10日で全滅だった。白梅の会長の中山さんがいた学年は看護隊として働いた。(つづく)

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