top of page

証言 No.26さんの場合

2016年10月 群馬県に住む中国残留孤児にインタビュー。

70歳。終戦時お母さんのお腹に。両親は長野県長野市出身。信濃郷開拓団。
 
親から聞いた話。満州には何もなくて、丸木で家を建てた。お母さんは19歳で結婚したばかりだった。終戦時、避難する時、3歳のお姉さんを殺したらしい。避難中、父親は何処に行ったかわからない。中学生の時、母親から聞いた。終戦2年前に体の弱い兄は長野の祖母に預けられた。私は避難所で生まれた。瀋陽駅の近くの春日小学校で生まれた。2件目の家で落ち着いた。その時日本人は人間じゃない。豚犬、もっと低いから。我慢できない人は自殺した。避難所にいる時、軍隊の服を縫うところで働いた。食べ物が貰えた。自分の産婆さんだった吉田さんが近くに住んでいた。
母親は感謝していた。石工の養父との間に3人の子供が出来た。
文化大革命の時、1か月以上、個室に閉じ込められていた。人間の監視の目が沢山あった。家中、物を探された。軍隊に入るとき、専門学校に入るとき、政治審査で駄目だった。
木の葉っぱや野草を採って食べた。田舎まで汽車で採りに行った。食べ物がなかった。おかゆは水の中に数えられるほどの具が入っているような有様だった。
小学校、中学校が終わって、自動車の専門学校に入った。36歳の時課長になった。
国交回復後、1975年に1年間、お母さんは長野に里帰りした。おばあちゃんも生きていた。喜んだ。兄弟にも会った。中国に帰った後で、永住を決意。1990年にお母さんは永住帰国。1991年に私も日本に永住帰国。埼玉県の高麗先生が特別身元保証人になってくれた。親戚は誰も保証人になってくれなかった。働くところも高麗先生が紹介してくれた。43歳だった。子どもは12歳、13歳だった。学校から子供が泣いて帰って来ると校長先生に話に行った。
日本は歴史の教育が足りない。昔の事をわからない若者が多い。私信じられない。
​中国ではよく勉強する。もっと勉強してほしい。
終戦直後、お母さんは自分の子供を殺さなくてはならなかった。20歳以上年上の人と結婚しなければならなかった。心は複雑だったと思う。70年前の事、少し知って欲しい。今の人は理解できない。何のため?国の為?
bottom of page