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(6)台北市の二・二八紀念館 ボランティア 張さん

2016年3月にインタビュー。18年間、ボランティアをしていらっしゃるそうです。見学が終わると、「時間がありますか」と、話しかけてくださり、いくつかの疑問を同行していた夫と尋ねた。30分くらい話してから、ビデオに撮らせていただいた。話が前後し聞きづらいところもありますが、様々な立場の違いはあっても、日本が台湾を統治していた頃の生き証人であり、生の声を残したいと思い、敢えて掲載します。

  小学校の義務教育(国語の教科書は「ハナ ハト マメ」で始まる。私の両親や瀬戸内寂聴の世代が使った教科書)を終えて、中学校は受験して入った。日本語の教育だった。中学の時、空襲を受けた。勤労奉仕・道路奉仕をした。

 日本軍が引き揚げた後、先生がいなくなった。蒋介石率いる国民党軍が来ても、教える先生がいない。日本人を少し残したが、中国から来た北京語話す人たちは、台湾人と日本人が仲がいいので嫉妬した。日本人は帰してしまった。2年後北京語になった。

 1968年に3か月間炭鉱の技術者として、日本に行った。鉱物の採取、立坑開発技術などを見学した。費用は国連の援助だった。三池炭鉱、筑豊、マツダ自動車、広島ドーム、長崎、常磐ハワイアンセンター、犬山などに行った。北海道の炭鉱にも行った。青函トンネルができていなくて青函連絡船で、翌朝夜明け函館についた。夕張炭鉱など北海道の炭鉱巡りをした。1970年、大阪万博にも行った。香港、九竜、ローマ、ドイツの炭鉱の請負会社が受け入れてくれてイギリス旅行にも行った。家の中では台湾語を使用していた。戒厳令の時はどうだったか。の質問にはあまり答えてくれず。(当然と言えば当然)

 

 以下、台湾の歴史について語ってくださる。

 1895年、日清戦争に日本が勝ち、下関条約で台湾を日本に譲った。未開発な農業社会を開発した。

(話はオランダ植民統治時代1624年 - 1662年に戻り)台湾の歴史は、南部はオランダ人に占領されていた。台南島、高雄などは補給基地として使われていた。

(鄭氏政権時代1662年 - 1683年)鄭成功がオランダ人を追い出し、21年間統治。1683年から清の領土になる。福建省の管轄になる。一時フランスの艦隊が淡水から上陸したこともあった。

第二次世界大戦後(1945年 - 現在)台湾が独立の省になった。1709年から移民者を許可した。台湾海峡を渡るとき、荒波で沢山なくなる。伝染病で亡くなる方も多かった。故郷の廟のスピリッツを持って来て拝んだ。

 

(第二次世界大戦後1945年)日本が引き揚げ、新政府が来た。熱烈歓迎した。平等な民主的な世界ができると思った。しかし、わらじを履いてきた。規律も守らないので失望した。賄賂、品行に問題があった。日本が引き揚げる前の台湾の文化は大陸に比べ高かった。工場は夜も動いていた。日本が降参したら、工場は閉鎖。収入もなくなる。日本が作った専売制度はよかった。タバコの闇取引、無税で安いので皆闇たばこを買う。取り締まり時、逃げ遅れた婦人が捕まった。「夫は徴収され戦争に行って帰ってない。タバコを没収しないで。生きていけない。」とすがった。ピストル出して、空に向かって威嚇発射した。同情心のある人が怒鳴った。周りを群衆が取り囲んだ。何事が起ったのかとベランダから覗いている市民に当たった。派出所に逃げ込んだが、殺人者を逃した。憲兵隊に「捕まえて!」一部の不満者が、翌日2月28日、デモが起こり、暴動が起こった。専売局総局に大勢の人が集まった。台湾行政庁本部からの機銃掃射によりデモに参加した多数の市民が亡くなった。逃げた一部の人がラジオ局を占拠し、その事件を台湾全土に流した。(2.28事件のあらまし。軍は台北以外の各地でも台湾人(本省人)への無差別発砲や処刑を行っていた。)

 処理委員会が作られ政府に提言した。規律正しい台湾人を使ってくださいと提言した。武力では制圧できないと。(2.28事件をきっかけに、その後40年間、戒厳令が敷かれる。)

 日本は、伝染病予防、交通網、港、水利管理、農業面積の増加など、台湾のインフラ整備に貢献してくれた。

 台北から福岡空港に飛び、2週間、日本へ自由旅行に行った。大阪、京都、神戸、奈良等に行った。福島や群馬にホームスティしたこともある。    ( )内は筆者記入。

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