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アーカイブス  証言(1)   

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おしんのような子ども時代。小さい時から奉公に出ていて、8歳から正月を親と一緒に過ごしたことがない。

1935年生まれ。終戦時10歳。1977年に日本大使館に手紙を書き、身元を調べて貰った。。文革時、2年間労働改造所に。養父母はスパイ容疑で、4年間労働改造所に入れられた。

1939年生まれ。インタビュー時79歳。5歳で渡満。12歳で終戦。終戦前に父と兄は根こそぎ動員招集。終戦時、ソ連兵の襲撃に遭い、母親、弟(9歳、6歳、3歳)も亡くなる。自分は草の中に隠れて無事だった。

1934年生まれ。インタビュー時79歳。7人兄弟の長男として生まれる。1942(昭和17)年、9歳で渡満。11歳で終戦。1980年一時帰国。1989(平成元)年、55歳で永住帰国

インタビュー時92歳。昭和15年に渡満。父親は55歳だった。両親も亡くなり、中国人家庭に入り、62歳で帰国。満州にいったら、本部の事務員がいなくて手伝うことになった。行って3年たたないうちに、男達は戦争に招集された

中国語ができなくて「これが包丁だ!わかったか!」と包丁をのど元に突きつけられたこともあった。泣きながら覚えた。その後、16歳くらいの時、20歳くらい年上の人の所にまた売られた。3歳、5歳違いの子どもがいた。泣きながらそこで生きてきた。

1933年(昭和8年)生まれ。56歳で永住帰国を果たすまで、6歳から50年間、在中国。44歳の時、一時帰国。終戦時、姉14歳(残留婦人のカテゴリー)私12歳(残留孤児のカテゴリー)。終戦の8月に父親出兵。

1932年(昭和7年)生まれ。昭和15年8歳で渡満。13歳で終戦。1974年一時帰国、1985(昭和60)年永住帰国。中国在住45年。日本国籍がありながら、外国人としての法務省の対応により、「帰化」となった。

1936年生まれ。4歳で渡満、9歳で終戦。方正の収容所にいるとき、母親と子ども三人がひと冬を越すため、中国人家庭に入った。ひと冬のつもりだったが30年になった。

1932年生まれ。1996年、永住帰国。1941(昭和16)年、家族6年で渡満。その後母親と姉が病死。13歳で敗戦。方正の収容所で、妹は中国人家庭の養女に。まもなく父親、兄も病死。私は、、、

1933年生まれ。日中国交回復の直前に永住帰国。父親は根こそぎ動員、終戦後、シベリアで死亡。6歳の時、父親が満洲を見に行った。泰阜の満蒙開拓第1号だった。

1932年生まれ。8歳の時一家8人で渡満。三年後、父病死。その後18歳の兄が召集(朝鮮から、のち帰国)。次兄は終戦の年、シベリア送りになる途中で亡くなる。終戦時14歳、45歳の時、一時帰国。1992年永住帰国時60歳

1932(昭和7)年生まれ。 1940年、8歳の時、一家で満蒙開拓に。終戦時、14歳。4年間養女、その後嫁になる。殴られて死んだ日本人孤児もいた。一所懸命働いた。1976年、一時帰国。1989年永住帰国

父親と自分の名前は覚えていたが、母親の名前は忘れていた。一時帰国では、父、従兄弟に会った。永住帰国を希望したが、父の再婚相手とその息子に反対され、身元引受人になってもらえなかった。その後、10年かかった。帰国。中国在住52年間。

昭和11年生まれ。昭和14年、4歳の時両親と兄弟3人で渡満。正月でも小さな塩鮭が一匹で、米も食べられなかった。畑も中国人から奪った。自分で開拓したわけではない。終戦も皆知らなかった。関東軍は先に逃げた。

1030(昭和5)年生まれ。6人兄弟。この戦争で兄弟は全員亡くなった。終戦時15歳。3年間の避難生活の後、中国人に助けられる。1989年永住帰国。中国在住52年間。

1934(昭和9)年生まれ。インタビュー時79歳。永住帰国1980(昭和55)年。1940(昭和15)年、5歳の時、一家7人で満州へ。終戦時、9歳。 一時帰国の時、兄と再開。1980(昭和55)年、永住帰国亡くなった

1935(昭和10)年生まれ。1945年3月、母親は満州行きに反対で、離婚した。父親と二人で、10歳の時に渡満。父親が6月召集。隣のおばさんに預けられる。った

1931年生まれ。インタビュー時82歳。1940年10歳の時,渡満。1945年4月、父親召集。14歳で終戦。1軒に1丁銃があった。開拓団員が100人くらい自決した。 飢えと寒さの収容所で母親が自分たち子どもを連れて、中国人と再婚する。永住帰国1975年。70歳すぎまで土方をやっていた。後は年金暮らし。医療費は一割負担。「新支援法」の恩恵は受けていない。

インタビュー時79歳。昭和9年、小鹿野町生まれ。両親、兄と弟と私で渡満。5歳だった。満州で弟が二人生まれた。12歳で終戦。父親は徴兵された。ソ連兵の襲撃にあった。自分以外は全員家族亡くなった

昭和3年樺太生まれ。家族13人8人兄弟の5女。11歳の時、満州へ。終戦後トウモロコシ25キロで中国人に売られた。1991年64歳で自費永住帰国。子どもは41歳から20歳まで6人。仕事をしてお金を貯めては順に呼び寄せる

未認定の残留孤児。昭和21年生まれ。母は阿智村出身で、青年奉仕隊で満州に渡った。終戦の混乱期に中国人家庭に入るが婚姻届は出していなかった。翌年、私が生まれた。1981年に親戚の助けが有り、自費で永住帰国した。その後就籍手続きをとり、日本国籍取得だけ。

昭和11年生まれ。インタビュー時77歳。8人家族で5歳頃、1941年頃渡満。終戦直前に父親は招集。シベリアへ。母と姉は終戦直後亡くなる。黒竜江省から船で日本に帰ろうとしたら、日本の船はなく、仕方なく開拓団に戻る。物は取られ空っぽ。ショーコドウ開拓団は家に火を付けて燃した。大勢焼け死んだ

「14人の残留婦人強行帰国」として、母親の永住帰国はマスコミで話題となった。ただただ一生懸命生きてきただけ。

昭和17年8歳で渡満。20年の8月9日、父親は中国人に殺され一人ぼっちに。2回売られる。結婚後、文化大革命の時には、家族にも日本人であることは黙っていた。に、終戦。

5歳で終戦。方正県に避難した。20日間くらい歩いた。道路脇に死んだ人がたくさんいたが誰もかたずけもしなかった。私も置き去りにされたが、母が思い直して連れて行ってくれた。      

 養父との間の妹は学校に行けたが私は行けなかった。19歳までずっと農業をしていた。生活は苦しかった。食べられるものは、木の皮、草の根、何でも食べた。1969年、母は餓死した。大勢が餓死で亡くなった。

 

1940年満州生まれ。終戦時5歳。3歳の弟を負ぶって母親とともに逃避行。山中で開拓団60人集団自決。母親も殺される。自分も鉄砲で撃たれ気絶。目が覚めた時、皆死んでいた。3日間くらい山の中を彷徨い、養父に助けられる。傷口からウジ虫が湧いていた。養父が削ってくれた。

 

「大陸の花嫁」として渡満。 岐阜県出身。満州女塾で勉強している時に、終戦。

子供の時の記憶は、収容所から始まる。残留孤児の経験を生かし、病院で通訳の仕事を。

通訳付き。インタビュー時76歳。昭和20年3月、8歳で家族8人で満蒙開拓に行く。8月終戦。荷物はまだ届いていなかった。

通訳付き。2,3歳の時、満州に渡った。中国に着いて、ずっと病気をしていた。小学1年の時、終戦。父は終戦時離れ離れでどうなったか今もわからない。1988年、日本に帰りたいのに手続きが進まずストレスで脳梗塞になる。

インタビュー時75歳。終戦後、吉林省の駅で泣いているところを中国人に拾われた。養父は鉄道の職員で子供はいなかった。3年くらい学校にも行けた。

大正12年生まれ。開拓団員が花嫁を探しに来て、役場から紹介があって、満州に行った。花園開拓団。

自分も中国人家庭に入り、命を繋ぐことができた。5人の子どもを生み育てた。日本人の夫はシベリア経由で3年後に日本に帰って来ていた。後期集団引き上げの時、日本に帰るチャンスがあった。しかし、子どもを捨てて自分だけ日本に帰ることができなかった。大飢饉の時は、木の実、木の皮も食べた。

チャーズ(八路軍と国民党軍の対立による長春の封鎖(詳しくは、遠藤誉氏の「チャーズ(上下)」に書かれている)の中を生き延びた過酷な経験を持つ。

 

昭和12年生まれ。インタビュー時78歳。両親、妹、祖母の5人家族。父は散髪屋。昭和19年4月、7歳で渡満。昭和55年永住帰国。平成5年長女一家を呼び寄せる。永住帰国。平成5年長女一家を呼び寄せる。

 

昭和8年生まれ。インタビュー時82歳。8歳で渡満。千振小学校に通う。平成5年60歳で永住帰国を果たす。「命だけ残しなさい」

 

 

 

昭和20年9月満州生まれ。兄二人、両親、祖父母。逃避行の途中で生まれた。養父母は、生まれたばかりの子供を亡くしたところだったので、撫順市の避難所に子供を貰いに行った。そこで貰われて、命を繫ぐことができた。

 

インタビュー時78歳。昭和12年香川県生まれ。8人家族で渡満。父は郵便局勤務。小学校に、父の自転車に乗って通った。

今年、97歳になる母親が残留婦人です。記憶もうろ覚えになり、現在はインタビューには応じられないが、20年前に記録した録音テープがあるので、それを聞いていただきたいという事でした。

(日本語と中国語)インタビュー時、72歳。姉から聞いた話では、終戦後に母親は亡くなる。中国の家庭に育てられ、27歳まで自分が日本人だと知らなかった。結婚し、政府の高官であった義父から知らされた。養父母から知らされることはなかった。大事に育てられ学校にも行けた。日本に帰っていた兄が心配して手紙をくれた。1988年に厚生省の肉親捜しが来たことがある。1990年、永住帰国。

小学校を出た頃、父は美唄で自営業をしていたが失敗して、家族で満州へ。木の根を掘って開拓をした。瑞穂部落に学校もあった。作物も豊富に採れた。高等科を出て青年学校に行っていた時、終戦。夜襲撃があり朝逃げ出す。ソ連の飛行機から終戦を知らせるビラが降ってきたが、誰も信じなかった

4歳の時、家族で渡満。日本では父親は炭焼きをしていた。冬は橇に乗って遊んだりした。兄二人は終戦直前の7月頃召集。シベリア送りになり3年後に帰国。終戦時、9歳。ハルピンへの逃避行。一日歩いて、夜子供を負ぶい紐から降ろしたら、子供は死んでいたり。機銃掃射で逃げて家族がバラバラになってしまった。よく生きてきたと思う

インタビュー時83歳。13歳で渡満。行ってみたら仮設住宅だった。食べるものはあった。実験場に2か月くらいいて逃避行が始まった。祖母が亡くなる。ソ連兵が女を探しに来る。裸足で窓から逃げたこともあった。頭を坊主にした。

インタビュー時89歳。愛知県生まれ。父は復員後、大連のホテルに勤務。家族を呼ぶ。村で仕事がない人を大連に連れて帰る時、一緒に連れて行かれた。15歳になっていた。11人兄弟の兄は2回目の召集。9月22,3日にソ連軍が大連に入ってきた。トラックに載せられたら大変なので隠れていた。

周りの事情で強く勧められ12月23日結婚。
【サハリン残留邦人】サハリン(樺太)生まれ。インタビュー時83歳。
サハリンからマリンスキー刑務所、カザフスタン送りになり、2002年帰国を果たす。
【サハリン残留邦人】インタビュー時89歳。山形生まれ。根室に引っ越した。12人兄弟で一番上。兄弟の面倒を見て大きくなった。19歳で南千島に徴用で行った。根室市長が若い人を集めて、「日本は男性の手がなくて忙しいから、南千島に行ってくれないか」と言われた。共同生活をしながら昆布を乾かす仕事をした。。

 

【サハリン残留邦人】インタビュー時87歳。3歳の時、父親の転勤で酒田から樺太の野田町(チェホフ)へ。44年ぶり、69歳で帰国。直後に花巻で3.11震災に会う。その後、札幌で生活する。んだことがある。

 

インタビュー時75歳。1942年、花園開拓団で1,100人(大田原、黒磯、矢板)満蒙開拓に行った。当時2歳。終戦時5歳。母親は餓死。子供の時からいじめられた。文革時、「現行犯反革命分子」という罪状。壁新聞で自分のことを批判されると、それに対する反論の壁新聞を上から貼った。二人合わせて12,3万円の年金暮らしだが息子の扶養になっているので支援金が出ない。がある。

 

残留孤児同士の夫婦。夫:終戦時6歳。3歳で渡満。4人家族だった。船に乗って逃避行した記憶がある。中国人に襲われて品物を取られた。方正の収容所でみんな死んでいった。中国人家庭に姉と連れて行かれ次の日、自分は他の家に連れて行かれた。(姉から後で聞いた話)姉が中国人家庭で育てられ、結婚後すぐ病気で亡くなる。1回しか会えなかった。昭和51年永住帰国。38歳だった。土木作業一筋に68歳まで働いてきた。とがある。

 

昭和1年、北海道生まれ。終戦前に両親は亡くなり、兄のいる満州に兄嫁とともに15歳の時渡った。終戦後、日本人が引き揚げる船があったことなど、まったく知らなかった。紹介する人があり、20歳年上の中国人と生きていくため結婚した。生き地獄だった。電気、水道、洗面器もない島で暮らし、病気になって日本人医師と出会い、そのことがきっかけで、一時帰国が実現。永住帰国できた。
インタビュー時、71歳。養親の愛情を受け育つ。37歳の時、日本にいる母親から手紙が来て初めて自分が日本人の子供だと知った。終戦時、3人の兄弟は機銃掃射で亡くなる。自分と次男(1990年に永住帰国。中国では医師)は別々の中国人家庭に預けられた。子供の頃、兄弟と知らずに一緒に遊んだことがある。

 

 

【サハリン残留邦人】1931年生まれ。14歳の時終戦。叔父に育てられた。22日に豊原の爆撃があった。危機一髪で助かった。ロシア人の略奪レイプなど酷かった。泥棒に入られても、何も言えなかった。叔父が林業に明るかったので重宝され、引き揚げ命令が何度か取り消され帰国できなかった。17歳で朝鮮人と結婚。食べ物がなくてほとんど山菜を食べて暮らした。若い人に言いたいこと。二度と戦争の無いように。

インタビュー時80歳。山梨生まれ。5歳の時、満蒙開拓団で、両親と妹と家族4人で渡満。日高見開拓団。
 終戦時10歳。終戦間際の7月に父親は徴兵される。母と妹二人と弟の5人になっていた。妹、母親も亡くなる。寒くなって来て、妹、弟と共に3人で現地の人に連れていかれる。日本語は話してはいけないからと兄弟に会うこともできなかった。
 父親は、シベリア抑留5年を経て日本に帰り、再婚していた。一番つらかったのは、生活保護を貰っている時。長女が家に帰ってご飯を食べていると、「長女からお金を貰わないなら一人分減らすよ」と言われた。
 

【中国語と日本語(通訳付き)】生年月日が明確ではないが、1937(1942?)年、京都で生まれた。父親が兵役で上海に行っていたので、母と6歳の兄と3歳の妹と叔父さんとハルピンに行った。もともと父親が持っていた家があったので、そこに住んでいた。母親が病気で亡くなった。直後に終戦。お兄さんは現地の人に貰われていった。自分も3歳の時に貰われていった。養父は豊かだった。52年に日本人が多く帰国するようになって、養父母は自分を手放したくなかったので隠すようにイシュンに引っ越した。養父には3人の妻がおり、養母は第二夫人だった。第一夫人がハルピン医大に進学することを進めてくれて医者になった。49歳で永住帰国。子供は28.9歳から18歳だった。20歳未満の息子だけ日本国籍が貰えた。帰国後は養母の世話するため、近くの工場で働き、お昼にはご飯を作りに帰った。家庭内では孫も子供たちも日本語と中国語と両方話す。日本に来てからは幸せ。空気はきれい。中国では年金生活だったら病院に行けない。生活できない。

【中国語と日本語(通訳付き)】1943年生まれ。7歳の時に、孤児と言われ、1966年に派出所に孤児であると調べてもらおうと行った。養父に自分は孤児であるか問い詰めるが、孤児ではないと言われた。養父は暴力を振るう人だった。11歳の時学校に入ったが、養父は夜は仕事を手伝わなければならないと言われた。学校で使う紙も買ってくれなかった。タバコのケースを洗ってノートにした。もう一人養女がいた。養親の子供はいなかった。お酒を飲むと暴力を振るった。養父は男の子が欲しかった。

大正14年、勝沼生まれ。インタビュー時91歳。家にいるのが嫌で一人で満州に行った。ソ連の兵隊は腕時計をよこせと言って、腕にも沢山つけて喜んでいた。終戦の時19歳。中国のおじいさんとおばあさんの家に逃げ込んだ。中国人と結婚し、子供は6人生まれた。火箸を焼いて顔に火傷の傷を付けられた。自分が逃げては困るという考え方からだった。ずっと畑に出て働いていた。長年農業をしていた。子供は姑がみてくれた。文化大革命の時、辛かった。77歳で永住帰国。夫も呼び寄せ、徐々に子供達も呼び寄せる。一番大変だったのは、ソ連兵が入ってきたとき。一番怖かった。今はひ孫もいる。子供の頃勝沼で遊んだことが一番幸せだった。「運が悪いから」 コーリャンで囲ってあるトイレで、月経の汚れ物を拾って、ソ連兵から逃れた。これが一番苦労だった。泣いても泣ききれない。知恵があったから助かった。みんな遊んでから殺すからね。

昭和16年生まれ。インタビュー時74歳。終戦時4歳。高熱で死にそうになっていたところ、養父の所に貰われていった。食べ物が口に合わなかった。最初の記憶はお粥を食べさせて貰ったこと。商業学校にも行かせてもらえた。養父母には、ほかに子供はいなくて、大事にしてくれた。 終戦直後、駅で働いていた養父が「病気でかわいそうだから、子供を私に預けろ」と言って、和服で包んであった自分を貰ったそう。お母さんはそのまま日本に帰国できた。18歳で結婚。子供が三人生まれた。自分が残留孤児ということは、自分が40歳過ぎた頃、養父が病気になった時、大勢いるところで言ったのでわかった。しかし、その時は信じられず、絶対本当の子供だと思っていた。1988年の一時帰国の時、空気も人も良くて日本が気に入った。2000年永住帰国。

昭和6年、現在の阿南町生まれ。実家は農業。男兄弟が5人だった。満州に行くきっかけは、近隣町村の長が満州に視察に行ってきて、うちの村長は行かないと言っていたが、泰阜村の分村と一緒に行くことになって一家で行くことになった。 9歳で渡満。妹3人、弟一人いたが、弟は行く前に病気で亡くなる。8月10日、父親に召集令状。14歳で終戦。父親に「母親と妹たちを守ってくれ」と言われたのを覚えている。

後でわかったことだが、父親は牡丹江に行き貨物列車でシベリア行き。翌年栄養失調で亡くなった。帰国後、厚生省、法務省に「なぜ、8月10日に招集したんだ」とぐだってきたことがある。

 【サハリン残留邦人】 昭和17年生まれ。インタビュー時74歳。たぶんサハリン生まれ。3,4歳で韓国人に貰われたらしい。4歳ころ、近所の人に教えられ、捨て子だったことを知った。子供は私一人だった。養父は少し優しかったが、養母は優しくなかった。 朝鮮学校に通った。日本語を話すと怒られた。棒で叩かれた。
【サハリン残留邦人】I939年,,北海道中頓別生まれ両親は上の二人の子供を祖父母に預け、3人の子供を連れてサハリンに仕事をしに行った。父親はサハリンの炭鉱で働いていたようだ。その後5人兄弟が生まれた。 終戦直後、いつの間にか友達が家族ごと居なくなった。家の中はそのままで。うちは子供が多く、港まで歩けないのであきらめたようだ。朝鮮人に子供を預けて(捨てて)船に乗った人もいたそうだ。船に乗れる人数は限られていたが、乗りたい人はサハリン中の日本人で、乗船は大変だった様子だった。サハリンの内部地 ブイコブ(炭鉱)にいた。ソ連軍はいつの間にか来て支配していた。

昭和12年生まれ。昭和15年に両親と渡満。7歳上の兄は日本に残った。小学1年に終戦。ターバランから方正まで3週間くらい歩いて行った。牡丹江が渡れなくて困っていると、筏を兵隊さんが作ってくれた。ソ連軍が来たら、兵隊さんはどっかいなくなってしまった。川に流された子供もいた。方正では家に入れなくて、穴を掘って生活していた。12月に父親は亡くなる。毎日バタバタ亡くなった。何もなくて、母親と中国人家庭に入る。そこにも何もなかったけれど、命だけは助けてもらった。12歳の時、養父は亡くなる。違う家に母親と二人で行った。新しい養父は優しくしてくれた。学校は2,3年行けた。養父は一人で山東省に帰って行っってしまった。18歳になって結婚。いずれは日本に帰りたかったので、同じ残留孤児の人と結婚した。母親は違う人と結婚した。一時帰国で、日本のお兄さんと会えた。47年、お母さんが先に永住帰国。その後、泰阜に帰ってきた。

 【サハリン残留邦人】1940年生まれ。小さい時は田舎で過ごしていた。父は木こりだった。今も自然が懐かしい。家にストーブはなく大きいドラム缶で暖をとったり料理をしたりした。鮭を川で捕って食べた。棒で叩くと鮭が簡単に捕れた。山菜もたくさん取って食べた。8人兄妹。父親は毎日疲れていたので、皆で肩たたきした。家の中では日本語、家の外では日本語を使う事ができなかった。6歳前に朝鮮人学校に入った。週2回ロシア語を習った。父親は教育に厳しく、働き者で勤勉だった。ロシア語ができないので、長期休暇を貰った時、首になったと思って次の仕事についた。働き通しだった。
昭和4年生まれ。インタビュー時86歳。10歳で満州に行った。大営開拓団。父親は渡満後、すぐリウマチになり寝たきりになった。家畜の世話や燃やす木を集めたりして働いた。終戦後、家族は1年間、本部にいたらしい。その後、21年の11月に帰国できた。私は昭和21年、4月八路軍に入隊した。陸軍病院で看護師の仕事をした。1951年、除隊し中央貿易部の医務室勤務になった。お金もないし日本には帰れないと思って24歳で結婚。文化大革命の時は、朝6時から夜10時まで仕事した。神経衰弱になってしまった。
昭和8年樺太(留多加群留多加町)生まれ。インタビュー時83歳。両親は親戚と一緒に北海道から樺太に行ったようだ。昭和15年、樺太から福島によって、新潟から船で満州に行った。両親と5人兄妹で行った。国民学校6年卒業まで開拓団の学校に行く事ができた。先生は根こそぎ動員でいなくなったが、父親は足が悪かったので行かなかった。終戦直後、親戚の子供を負んぶして逃避行した。若い奥さんが子供を連れて茂みに入り、赤ちゃんを捨ててきた。どうしたのか母に聞いたら「黙っていろ」といわれた。川に自分から入っていった老人もいた。子供を川に流す人もいた。父が亡くなった(11月30日)。姉は14歳だったが中国人の農家に嫁いだ。妹二人はその後中国人家庭に貰われていった。お母さんは犠牲になって、弟と私を連れて中国人家庭に入った。昭和23年母が亡くなった。その家に居たくなかったので、八路軍に入るか、隣の人の紹介で結婚するか悩んだが、結婚した。昭和26年に長女が生まれた。北京協定後、帰る機会もあったが、子供を捨てて帰国することはできなかった。次々子供が生まれた。
 

<渡満の経路について>

証言の中で、「下関から行った」「神戸から行った」「敦賀港から行った」「新潟から行った」など、様々な話があります。

これは、満州事変(1931年 昭和6年)の前までは、神戸、下関航路が主流でしたが、この年、上野・新潟間の上越線が全線開通し、新潟と現在の北朝鮮の清津、羅津を結ぶ航路が日本から満州に渡る最短ルート(30時間)になったという時代背景があります。【佐野眞一「新忘れられた日本人」ちくま文庫189頁】

 

<童養媳(トンヤンシー)>幼女を買い取って、家事を手伝わせ、長じて嫁にする制度。1950年5月婚姻法の改正で廃止される。福建省の田舎などでは、今も残っているとのこと。中国残留孤児も残留婦人も多くの方が、童養媳(トンヤンシー)であった。貧しい農村にあって、男児も養子(家族)と言うよりは、労働力として養父母に認識されていた方が多い。「大地の子」陸一心のように教養もあり愛情あふれる養父母に育てられたケースは極めて少ない。

 

 

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