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証言 No.5さんの場合

2016年2月 沖縄に住む中国残留孤児にインタビュー。貴重なお話をありがとうございました。

 1932年、奄美大島生まれ。インタビュー時85歳。13歳で渡満。 昭和19年11月に満州に渡った。方正県の大羅蜜(たらみ)開拓団。小学校の寮に泊まっていた。学校には畑があった。穴を掘って大事なものを埋めた記憶がある。次の年に終戦。

 20年の8月15日前に本部に集まり、松花江から船に乗り避難した。船を爆破するとうわさが流れ、天皇の玉音放送が流れると、堰を切ったように皆開拓団に向かって走り出した。鎌を持った中国人に「金出せ、物出せ」と脅された。駅に向かって行ったが、汽車に乗れなかった。モロコシ畑に隠れたりして1か月くらいうろうろして方正県に戻った。父親は流行り病気で亡くなる。自分も病気になる。東日本大震災の時は国から食料支援などがあったが、終戦時の満州には何も無かった。畑で白菜を採り生で食べた。弟はイカンツウの開拓団近くの中国人家庭に貰われて行った。毎日食べ物がない。大豆を貰ってきて命を繋いだ。暮れに母親は方正県に行く。橇に乗って養父の家に貰われて行った。また病気になった。暖かくなったら病気が治った。農作業を手伝い36年間いた。大変なことが多くて語り切れない。飢饉の年は、配給が一人当たりトウモロコシ1斤もない。子供は5人できた。

 日中友好後、日本人には特別に配給の布や油の支給があったが、一切貰ってない。弟は15里離れたところに住んでいたが連絡が取れなかった。人民公社の映画会で偶然奇跡的に会えた。弟は農機具の担当だった。弟は日本に帰国する直前脳梗塞で帰れなくなった。1980年の一時帰国を永住帰国に切り替えた。5人の子供と妻と帰ってきた。妻は、帰国後2年間は日本語がわからず毎日泣いていた。末の6歳は幼稚園、3人は小学校1年生に入った。18歳は社会人に。49歳だった。妻は39歳。奄美にはいかず親戚のいる本島に永住した。学校の知らせ、持っていくもの、何もわからなかった。子供の教育でも一番大変だったのは日本語だった。子供が泣いて帰ってきた。棒を持って学校に行った。その時から喧嘩しなくなった。夫婦は中国語、子供は中国語がわからない。

 今までの人生で一番つらかったのは、豆腐屋に勤めていた時。朝2時に起きて3時から仕事だった。その食品会社で11年間働いた。その後警備会社にも勤め、帰国後19年働いた。事故で胸や頭を打った。動脈硬化で手術もした。

 兄は軍隊からシベリア送りになり、3年後帰ってきたら、国から洋服代くらいしか貰っていない。国際間で紛争が起きたら沖縄が最初に攻撃される。しかし、中国は絶対手は出さないと思う。

 若い人への教育を厳しくして欲しい。近くの公園でタバコを吸う中学生を見かける。しっかり教育してほしい。

 

 

≪インタビューの後≫

 中国語の出来る友人でこういうことに詳しい自立指導員にその場で電話し(スピーカーホン)、本人に電話を代わっていただき、中国語で30分説明してもらいました。最後に電話を代わり、友人と話しましたが、やはり、「電話では100パーセント理解してもらえた感触はない。制度の内容をパンフレットなど見せながら、相対して説明して理解してもらった方がいい」と言っていました。

 皆さんとても苦労してきたので、お金の事にはどうしてもナーバスにならざるを得ないのかも知れません。また、決定通知書等も長年日本に住んでいるのだから、これくらいの書類は読んで理解できているだろうと思っても、制度の内容が理解できていないと、書類だけでは大きな誤解を生んでしまうのかも知れません。後ろの壁の『あいうえお表』は勉強のために張っているそうです。身近に日本人で何でも相談できる親戚などがいれば解決する疑問なのかもしれませんが、誤解をずっと抱えているとそれが不信感になり、膨らんで、一日一日を健やかな気分で過ごすことができない原因にもなってしまいます。

 完全な解決には至らず、心苦しいですが、こういう誤解もあるのかと大変勉強になりました。すっきりと霧が晴れて、気持ち良い日々を送ってもらいたいと、祈りながら帰ってきました。

 

 
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