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(2)満蒙開拓青少年義勇軍 光輝さん<シベリア抑留>

 昭和2年生まれ。インタビュー時88歳。讃岐生まれ。5人兄弟の末っ子。父親が42歳の若さで亡くなる。母親も12歳の時亡くなる。兄弟で一町五反の米作をしていたが、小作だったので、米は残らなかった。タバコと麦で食いつないでいた。貧乏のどん底だった。

 

「満州へ行ったら十町分の土地をやる」と、学校の先生や役場の人に言われ、満蒙開拓義勇軍に志願した。昭和16年、14歳の時、茨城県内原の「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」に行き3か月の訓練を受け、その後、香川中隊約250名で、皇居遥拝、伊勢神宮参拝、栗林公園で家族面談し、神戸から3日間かけて大連に行った。そこでは戦跡巡りをして、ペイアンの青少年義勇隊に行った。

 日本では「軍」で中国では「隊」と名乗ったのは、中国人に変な感情をいだかせない為。冬は学科、夏は農作業に従事した。米はなく、野草(アカザ、ユリ根)を食べていた。3年間の訓練を終え、19年に牡丹江の五河林に入植。中国人の家も畑も取り上げて入った。取り上げられた人が匪賊となって日本人を襲ってきた。

 八月九日に身体検査が実施され、全員招集された。3日分の米を持って牡丹江に汽車で行くように言われた。行ってみたら、ソ連軍の一斉射撃があり逃げ回っていた。オオドカシで18日に終戦を知った。上司から武装解除命令があり、銃を取り上げられた。一週間歩かされて、シベリア送りになる。アントノフカ収容所に2年いた。木材の切り出しをした。昭和22年にナホトカから舞鶴に帰った。

 帰国後、大阪万博へ出向き、ソ連館に行って文句を言ってきた。帰国後の生活再建は大変だった。「釜土の灰まで惣領の物」という言葉がある。手に職をつけるため、最初靴職人になり3年間頑張ったが膝を痛めてしまい、その後は職を転々とした。手袋会社で長く勤めあげた。

 64歳の時、関係者に声をかけ、満州ツアーを企画実行。昔いた所などをまわった。

 

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