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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(11)ノモンハン事件の生き証人 武田さん
2016年8月、北海道でインタビュー。ノモンハン事件でタコツボの中に潜み、奇跡的に生還。
大正6年(1917)生まれ。インタビュー時99歳。庭には陶芸の窯があり、しばらく前までは自身で楽しんでいらしたそう。前庭の菜園は、インゲンやチンゲン菜など、夏野菜がよく育ち、手入れされていて、草1本生えていない見事なものでした。3回徴兵され、帰還。(インタビュー外の桜花(肉弾特攻)の話)ツルハシは持っている人も持っていない人もいた。ゴビ砂漠の続きなので割と土が柔らかくヘルメットでも掘ることが出来た。穴を掘る暇がなくて命を落とした人が多い。手榴弾を持っていても、命令がわからない。広いので連絡が取れない状況だった。上官が「命を無駄にするな」といつも言っていた。
大正6年生まれ。インタビュー時99歳。北海道生まれ。7人兄妹11人家族。父親は農業。大豆や小豆を作っていた。同級生にはアイヌがたくさんいた。竹馬に乗って遊んだりした。小学校を出て青年学校に2,3年通った。20歳で徴兵になり、釧路の歩兵部隊に編入。旭川の第7師団27連隊に入隊。昭和14年1月に満州に派遣された。ソ満国境線近くのノンコウに駐屯。東部国境の町、セイフガンでソ連と打合いをした。その後、ノモンハンに徴集される。1000人位。7師団はチチハルに集結。27連隊だけノンコウに駐屯。ノモンハンが負け戦になり、27連隊も徴集。コロンバイル草原、草原だけで隠れるところもなく、山も樹も川もない弾のとんでくるところに飛び込んだ。戦車隊に負われたり、航空隊に襲撃されたり。日本軍は地形的に不利だった。戦車に追い回されたり、 部隊長は「死ぬばかりが名誉でない。夜襲敢行せよ」3日目の朝、「全員穴を掘って入れ」入った瞬間に、機関銃の音がして、600人が全滅した。1800人が亡くなった。11時半頃、「助けてくれー」と聞こえた。百取り虫みたいに這ってきた加藤上等兵。ツルハシ(エンピ)の十字の所に弾が当たり、命が助かったと。自分の壕に入れた。
7師団終結できず、3師団が集まるはずで、待っている間に停戦協定が成立(1939年7月)。ハンダガヤに部隊が移動し、国境警備。1年半くらい。その後日本に帰還した。
<若き日のノモンハン戦>『町民文芸』に発表していた短歌5首 武田幸太郎
ノモンハン黎明を待つ一斉に重火器唸り死闘はつづく
戦場に屍ばね臭く漂いて狼吠える深夜となれり
薄暮よりノロ高地にも進撃し夜襲敢行敵は退く
モンゴルに砲列敷くかソ軍威嚇射撃か深夜につづく
暗闇の散兵壕に身を隠し夜露とならず霜柱立つ
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