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証言 No.15さんの場合

2016年7月8月。 北海道に住む中国残留孤児・婦人にインタビュー。

 1937年 サハリン 生まれ。8人兄妹。父親は漁師だった。小学校2年生、8歳で終戦。終戦前は、神社の前の広場で、藁人形を竹やりで突く練習をした。45年、ドドーンと言う音がして、防空豪に入った。ドラム缶の倉庫に大砲が落ちて空が真っ赤になる火事が起きた。47年、父親と兄達と姉さんたちは日本に引き揚げた。母親と私だけ残った。縫製の仕事を37年間務めた。1956年に国籍取得。
 1937年 サハリン知取(シリトリ)生まれ。家族は両親と5人兄弟。父親は漁師だったが、体を悪くして家の周りで野菜を作っていた。日本の小学校に1年から3年まで通った。8歳で終戦。終戦前は、神社の前の広場で、藁人形を竹やりで突く練習をした。45年、ドドーンと言う音がして、防空豪に入った。機関車の仕事をしていた兄たちはスコップを持って走って行った。ドラム缶の倉庫に大砲が落ちて空が真っ赤になる火事が起きた。豊原(トヨハラ)に疎開した。ある日、B29が飛んできた。公園に逃げ、一晩明かした。炊き出しを食べた。次の日、「日本が負けた」と聞いた。ソ連の将校が郵便局の前に並んでいた。戦車もたくさん並んでいた。
 子どもには角砂糖とガレットが配られた。「日本には帰れないから、元の所に戻れ」と言われ、知取に戻り1947年までいた。母親は病気の治療のため敷香に行った。1947年、父親と兄たちは日本に引き揚げたが、母親と私だけ残った。母は治療を助けてくれた人と再婚し、妹が生まれた。10歳の時、ロシアの小学校に2年生から入り、5年生まで通った。近所の人がロシア語の勉強を手伝ってくれた。家にはランプもなく、油に紐を浸して、明りにしていた。13歳頃に電気が通った。3度洪水になった。知り合いが船で助けに来てくれた。写真や書類やいろいろなものが流された。
 洋裁学校で半年間習い、縫製の仕事ができるようになった。37年勤めた。大陸に11か月間裁断の勉強に行く事が出来た。1956年にロシア国籍取得。日本人と結婚し3人子どもができた。子どもたちは全員ロシア国籍。
1985年に母親が亡くなり、1992年に夫が亡くなった。その頃から生活が厳しくなった。そのときは妹の夫の紹介で縫製の仕事をすることができた。日本人同士で集まると、「日本の国はいい」という話をした。日本への憧れがあった。いつか日本に帰りたいと思っていた。
 最初の一時帰国は1991年。長男も長女も次女もロシア人と結婚していたので、自分一人だけで帰国した。2005年に永住帰国。先にサハリンから帰国した人や団地の人たちには世話になった。ロシアにいる子どもや孫たちとはスカイプで顔を見て話ができる。人生を振り返って、一番つらかったのは親や夫を亡くしたとき。今が一番幸せ。
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