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周辺の証言

 当時は農耕を目的に満州国に行った満蒙開拓団のほかにも、満蒙開拓青少年義勇軍や満州女塾の募集もあり、終戦当時は満蒙開拓団と同じような辛苦を味わった。終戦直後の数年以内に日本に帰国できた方々にも当時の様子を伺った。

 引き揚げ援護にあたっては全国の送り出し県で、ボランティアを中心に進められた。日中友好手をつなぐ会や凍土の会、中国帰国者の会、国籍取得を支援する会、中国帰国者三互会、春陽会、日中友好協会等が中心となり、一時は、全国孤児問題協議会という全国的な組織も存在した。映画「望郷の鐘」の山本慈昭氏はその中心的な存在だった。機会があれば、古くからの支援者の方にもお話を伺いたいと思っています。

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支援者 看護師として早期帰国し、泰阜村で引き上げ援護と支援、語り部等で活躍した。NHK「忘れられた女達」「沈まぬ夕陽」その他多数に掲載されている。1925(大正14)年生まれ。泰阜村出身。昭和15年3月15歳で両親、妹三人、弟と家族7人で渡満。昭和16年哈爾浜の満蒙開拓青少年義勇隊 哈爾浜中央医院看護婦養成所に入学。昭和18年8月からは開拓団に戻って看護師として働く。父親は昭和20年8月10日に根こそぎ動員。終戦。逃避行。

 昭和2年生まれ。インタビュー時88歳。讃岐生まれ。5人兄弟の末っ子。父親が42歳の若さで亡くなる。母親も12歳の時亡くなる。兄弟で一町五反の米作をしていたが、小作だったので、米は残らなかった。タバコと麦で食いつないでいた。貧乏のどん底だった。「満州へ行ったら十町分の土地をやる」と、学校の先生や役場の人に言われ、満蒙開拓義勇軍に志願した。昭和16年、14歳の時、茨城県内原の「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」に行き3か月の訓練を受け、その後、香川中隊約250名で、皇居遥拝、伊勢神宮参拝、栗林公園で家族面談し、神戸から3日間かけて大連に行った。そこでは戦跡巡りをして、ペイアンの青少年義勇隊に行った。

昭和18年6月、満州女塾に志願して、四国からは総勢15名で出発した。三豊開拓団の本部に着いた。午前中は女塾生としての本分を勉強し、午後はカマを持って農作業をした。満州ではトンコン病といって帰りたい気持ちが募って原因不明の熱を出した人も多い。8月11日、国の幹部が部落より集まって、「満拓より避難命令が出ている。もうそこまでソ連兵が来ている」と。12日、早朝牡丹江を目指して出発。避難の列についていくのが精いっぱい。頭上からバリバリと戦闘機の機銃掃射に会い、亡くなった人も多い。小さい子供を連れた婦人は逃げるに逃げられず、満人に嫁いだ人もいて、経験した人でなければ理解してもらえないと思う。人が捨てたものを拾って食べた。あちこちで人が死んだ。ソ連兵から逃れ、口では言えない苦労をしているうちに、21年6月、日本に帰れるという噂が流れ、葫蘆島に向かった。乞食の格好で故郷に戻った。

『風雪に耐えて咲く寒梅のように 二つの祖国の狭間に生きて』を信濃毎日新聞社より 2003年11月出版。現在は近隣の学校に呼ばれて戦争体験などを話すことが生きがいになっているとのことです。 1932年飯田市生まれ。弟妹両親と5人家族で満州に行った。満州に行くのは嫌だったが、満蒙開拓なら兵役の義務が免除されるので、説明を聞きに行ったら、「広大な大地、家も土地も用意してあるから」と言われた。妹が生まれて1か月で、満州には行けないと断りに行ったら、「断ることはできない。断ったら配給を止める」と言われ、行くしかなくなってしまって行った。移民すれば1000円貰えるはずなのに、読書村は一人当たり20円で、5人分100円しか貰えなかった。

『元満州中川村開拓団ー私の敗戦回顧録ー』(協有社刊)を2015年6月出版。今の安倍内閣への危機意識から、戦争体験を若い人たちに伝えたいと出版したそうです。インタビュー時81歳。小学3年時、9歳、昭和18年渡満。戦争で負け始めていて東京の従兄弟たちが20名くらい疎開してきて大変だった。馬を使って運送業をしていたが、馬に徴発が来て、軍隊にとられ仕事ができなくなった。仕事ができなくなり、また馬を買い、仕込んで使えるようになるとまた軍隊にとられた。乳牛を飼うようになった。秩父銘仙の染物屋をやっていたが仕事がなくなった。「満州に行かないのは国賊」と非難され満州に行くことになった。中川開拓団は現地の人を追い出して、土地も奪って入植した。

日本が台湾を統治していた頃の生き証人であり、生の声を残したいと思い、敢えて掲載します。小学校の国語の教科書は「ハナ ハト マメ」で始まる。私の両親や瀬戸内寂聴の世代が使った教科書と同じ。中学校は受験して入った。日本語の教育だった。中学の時、空襲を受けた。勤労奉仕・道路奉仕をした。終戦になり、日本軍が引き揚げた後、先生がいなくなった。蒋介石率いる国民党軍が来ても、教える先生がいない。日本人を少し残したが、中国から来た北京語話す人たちは、台湾人と日本人が仲がいいので嫉妬した。日本人は帰してしまった。2年後北京語になった。

満洲で、終戦後も1年間、普通に国民学校が開かれていたという、貴重なお話(そんな経験をした方を私は知りません。初めてのことです。)を聞かせていただきました。
インタビュー時77歳。父親は公務員(工業試験場)として渡満した。家族でついて行った。
昭和11年生まれ。インタビュー時79歳。北海道広尾町生まれ。昭和17年頃、一家族で、祖父を残して渡満した。ハタホ開拓団に行った。二人の兄と一緒に国民学校に通った。終戦前はお米も食べていた。防空壕に入る練習は時々していた。アヒルが近くにいた。中国人の祭りなども見た。食用ほおずきも食べた。父親は徴兵検査で落ちたので、根こそぎ動員にはならなかった。敬寧に出張していた3年生の夏、終戦。林口を目指して逃避行。ぬかって疲れ切って休んだところで、「皆さん、僕が道案内をしますから、後からついてきてください」と言って団長がピストル自殺した。その後、白い布を裂いた鉢巻みたいなものを渡され、みんな目隠しした。ひざまずいて坐らせられ、山の上からと下から、鉄砲で挟み撃ちにされた。運よく弾が当たらなかった。翌日、満人が布を剥ぎにきた。私たちは満人の家に連れられて行かれた。
1923年 関東大震災当日、群馬で生まれた。尋常小学校、高等小学校を出て、満蒙開拓青少年義勇軍に昭和13年、15歳の時に入った。内原訓練所で2か月間訓練。同級生が一人一緒だった。訓練は厳しかった。40キロ歩いたり駆け足したりした。300人が下関から釜山、大訓練所が勃利にあった。満鉄関係の虎山訓練所が入植地になった。中国人の集落を追い出して、鉄道警備を主要任務にしていた。16歳以上の者は、銃を持たされて実弾も入れていた。現地人の畑と開拓もした。志願しないで本部の仕事をして20歳になってから兵隊に行った。ウラジオストックから30キロの国境守備隊、要塞地帯だった。トウネイ県トウスイには1個旅団、10個中隊くらいいた。(約3000人くらい)軍隊教育一本だった。歩兵だが、実弾も持たされた。1年くらいで、旅順の下士官養成所に行った。当時19歳に兵役を引き下げた。弟が満蒙開拓団で入植していたが、繰り上げ徴兵で、自分がいたところの同じ中隊に行っていた。
大正13年生まれ。インタビュー時93歳。8人兄妹の長男。祖父もいた。父親は役場の職員。その頃は漁業が多かった。20歳で徴兵検査で合格、入隊。ソ連と満洲の国境付近で、国境警備をした。一部の仲間はは沖縄に行った。19年に7月だった。20年2月、国境を後退し、ハチメンツに行った。そこでも国境警備をしていた。ソ連が攻めてくる前提で演習をしていた。78月9日、朝、飛行機が飛んできて爆撃もされた。9日の命令は「林口駅に集まれ」だったので、列をなして徒歩で向かっていた。13日の朝6時半ごろ麻山事件の現場を通過した。部下を休ませて自分は見に行った。老女の「兵隊さん助けて!」赤ん坊の泣き声などが聞こえた。ハタホ開拓団の兵役に行かなかった男たちが5,6人いた。「ロシアの人に凌辱されるよりいいから、殺った。」と。4,500人が自決した現場だった。昨日の事のような事件で死ぬまで忘れられない。
戦争の悲惨さを語り継いで行こうと北陸満友会を立ち上げられた。昭和10年生まれ。インタビュー時81歳。母親は満洲から金沢に自分を生みに戻った。父親は昭和8年頃徴兵。現地除隊後警察官になった。陸軍中野学校の全身、中野無線学校にいた。いうなればスパイだった。敗戦後を少年がどう生き延びたのかを知る興味深いエピソードが多数。
船員として、引き揚げ船に乗っていた当時の印象、出来事等を伺いました。インタビュー時、88歳。昭和4年、東京生まれ。12歳の時父親が亡くなり、18年4月、14歳の時、渡満。義理の兄が満鉄参事。シンガポール・佐世保。台湾・佐世保の護衛艦隊に乗っていった。2度ほど爆撃、魚雷を落とされる。奇跡的に助かる。終戦後、4か月間、葫蘆島と博多をピストン輸送。葫蘆島は昭和21年9月ごろから(?)
1933年、昭和8年生まれ。インタビュー時83歳。山形は県を挙げて「満洲へ」。親兄弟5人と叔父の一家、向こうで生まれた子供2人。その内の8人死亡。終戦後は八路軍に入り、新中国建設に力を尽くした。高倉テルの身の回りの世話をするという稀有な経験もした。最後の引き揚げ船、白山丸で舞鶴に帰国。帰国直後は日本語を忘れているような状態だった。中国での経験、中国語を活かし、身元引受人、自立指導員をする。
(15)東安駅爆破事件に遭遇 平野さん
東安駅爆破事件を目撃したショックで、記憶が消えてしまった。昭和15年、満洲生まれ。両親、祖父母、叔父さんの6人家族。父は昭和20年4月に徴兵で家にはいなかった。​シベリア抑留中、翌年2月に亡くなった。30歳ちょうどだった。昭和20年8月9日、東安駅、目の前で爆発。近くにいる人に足かなにか、体の一部が飛んできて、近くの人がギャーと声をあげ、その飛んでくる足と怖かったことだけしか覚えていない。おばあちゃんは、逃避行の途中、山中に置き去りにしてきた。逃避行の途中、母親は臨月で赤ん坊を産み落とすが死産。二人の弟妹も亡くなる。母親は「満洲の事は忘れた。」と、死ぬまで何も語らなかった。
昭和18年から19年の秋まで、父親が白山郷開拓団の団長をしていた。カメラを持ち、現像し、日本に送っていた。当時の満洲の様子が窺える貴重な写真の数々をお持ちです。コピーさせていただきました。公開し多くの人に見ていただきたいとのことです。『旧満洲国 白川郷開拓団 8月27日』(石川県教育文化財団発行)第5章生還者が語る「八月二十七日」と「引き揚げ」に写真提供。満蒙開拓青少年義勇軍で1年だけ満州で暮らす。​大正15年生まれ。インタビュー時90歳。石川県生まれ。

『7000名のハルピン脱出』の著者で、ハルピン陸軍病院の院長 嘉悦三毅夫氏の英断により、病院に収容中の患者、職員7000名以上が、釜山を経て山口県仙崎港に昭和20年9月29日に帰還している。その中のお一人。インタビュー時92歳。

2017年1月20日から2月2日まで、沖縄でインタビュー。「顔はちょっと」という事で、音声のみ。画像はホテルの喫茶ルームです。

​著者の山内るりさんは、この本を書くために、数年前、満蒙開拓平和記念館を訪ねられた。今回、沖縄訪問前に、記念館の方からそのことを伺い、著者に会いたいと思うようになっていた。記念館の方が、山内さんにお手紙を書いてくださり、沖縄滞在中にご返事が来るかどうか、不安でしたが会う事が出来ました。

​お亡くなりになった支援者の方々
☆支援者 庵谷磐さん(元中国残留孤児問題全国協議会会長)

2013年1月にお亡くなりになったと、しばらくしてから知った。目黒のご自宅に、何度もお邪魔し、貴重なご意見、貴重な資料を沢山いただきました。夏には、時間を忘れてお話を伺っていると、鰻をとってくださったり、秋にはお庭で採れたという栗で、奥様が手作りされた栗の渋皮煮をご馳走になったり、抱えきれないほどたくさんの事を教えて戴いたのに、何もご恩返しができなかった。中国残留孤児全国協議会が、政府への圧力団体として、十分機能しなかった理由、解散の経緯等を彼に語っていただいて、記録として残せなかったのは残念でならない。

『撫順炭鉱終戦の記』庵谷磐著.満鉄東京撫順会.1973 をお借りし、終戦直後の満州の惨状など、拙稿「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」に数カ所引用させていただいた。沼波万里子さんも菅原幸助氏もお亡くなりになり、当初の引き揚げ援護を知る人は、どこにいるだろうか。

 

2012/02/18 朝日新聞(惜別)元中国残留孤児問題全国協議会会長・庵谷磐さん 求め続けた「血の通う行政」

 いおりや・いわお 1月5日死去(老衰)94歳 1月13日葬儀
 敗戦前後の混乱で中国に残された日本人孤児、残留婦人らを長年支援した。彼らの存在が生まれた原因を見つめ、「国の責任」を問い続けた人だった。
 旧満州・瀋陽で生まれ、育った。東京帝国大学卒業後、満鉄撫順炭鉱へ。1945年8月のソ連軍の侵攻を受け、施設の破壊と退避を求めた関東軍の命令を拒否した炭鉱長のもとで、避難民に手を差し伸べた。麻袋一枚をまとって逃げてきた若い女性の姿は忘れられない、といつも語っていた。
 戦後は中央労働委員会の事務局や企業などに勤め、76年から孤児の支援活動にかかわる。民間団体の束ね役として厚生省や国会への陳情を重ね、「血の通った行政を」と訴え続けた。
 理論派で、自宅は本や新聞の切り抜きであふれた。毎年、経緯を知らない若いボランティアや記者たちに、嫌な顔ひとつせずに資料を提供した。
 「直接孤児の世話をしない」と批判する人もいたが、国がやるべきことを民間が代替するべきではないと筋を通した。一方で、公的支援のない混血孤児は身元保証人になり永住させた。
 晩年は財団法人満鉄会の専務理事も務め、07年には640ページに及ぶ、念願の「満鉄40年史」を出した。「後世に残したい」という強い思いがあった。
 この1年半は自宅のベッドで過ごしたが、いつも妻の尚(たか)さん(86)を気遣っていたという。
 強い信念をもつ一方で、年を重ねても「偏屈」とは無縁の、公平で公正な人柄は、稀有(けう)な存在だった。全国の孤児が02年から国を相手に起こした訴訟では、当初は金が目的かと多くのボランティアが背を向ける中、いの一番に理解を示し、証人として法廷に立った。新支援策を勝ち取った孤児と弁護士らの闘いに、「大したものだ」と目を細めていた。(大久保真紀)

 

 

千野 誠治さん

2014/01/25 朝日新聞

 

ちの・せいじ 1月13日死去(心不全)89歳 1月16日葬儀

「おもしろいことやってるから時間あるとき寄って」。そう言ってよく電話をくれた。知り合って23年。アイデアマンで、何でもおもしろがり、楽しそうに実行してしまう人だった。東京生まれ。15歳で満蒙開拓青少年義勇軍として中国東北部(旧満州)に渡り、戦後3年間、シベリアに抑留された。 中国残留邦人問題との出会いは、1980年。同じ開拓団にいた残留婦人が帰国したものの肉親に受け入れを拒否され、手を差し伸べた。以来厨房(ちゅうぼう)器具を扱う会社を経営しながら、生活や就労、身元がわからない残留孤児の国籍取得を支援した。 当初、日本政府は身元が未判明の孤児には日本への永住帰国を認めなかった。弁護士と協力して、就籍という方法で中国在住のまま日本国籍を取得、彼らに帰国の道を開いた。かかわった孤児は1千人を超える。 「満州がオレのすべての原点」。理想に燃えた開拓が実は侵略だったという事実と、ソ連侵攻後に見た逃げ惑う開拓団の女性や子どもたちの姿。それらが背中を押し続けた。 帰国者に墓がなく、遺骨が押し入れに、と聞けば共同墓地を造り、逃避行で子どもを亡くした母親の癒えない心の傷を知ると、東京・浅草寺に「まんしゅう母子地蔵」を建立。中国に「養父母感謝の碑」も建てた。 最近は足腰が弱っていたものの、年明けには自筆の年賀状が届いたばかりだった。亡くなった夜は晩酌をして歌を歌い、風呂に入ったまま帰らぬ人となった。長男洋一さん(49)は「極楽から極楽に旅立っていった、父らしい最期だった」と語る。 葬儀会場には趣味で作りためた小さな地蔵が並んだ。横には好んで書いた自筆の言葉も。「いくさあらすな」。戦争は二度とあってはならない、という意味だ。(編集委員・大久保真紀) 【写真説明】 旧満州で亡くなった人たちを思い、粘土で手びねり地蔵を作るのが趣味だった=1998年、東京・六本木の自宅

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