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証言 ノさん残留婦人

2015年8月 北海道でインタビュー

昭和1年生まれ。北海道生まれ。家ではお米を作っていた。小学校を出てから農業を手伝っていた。

母親はお産で亡くなり、父親は病気で亡くなる。姉も17歳で亡くなり、残されたのは私と弟ふたり。シナ事変で徴収されていた兄が満州から帰って来て誘われ、兄嫁と一緒に1941年大連に行った。15歳。

兄と兄嫁と三人で暮らすも、食べ物が配給制で自分が邪魔になり、辛くて家出をし自殺しようと海に飛び込んだが浮かんでいて助かった。旅館の人に助けてもらい、そこの手伝いをし、1941年9月から1945年8月まで事務員と電話交換手をしていた。玉音放送をそこで聞いた。1か月後、ソ連軍が来た。着の身着のままで山の中を逃げ回った。中国人の家で塩、水を貰って生き延びた。局長さんが「大連に行くように」と。汽車で大連の小学校避難所に行った。配給が1日1杯のご飯。電話局の人が毛布をくれた。1945年9月から1956年の1月まで、日本の民間人のお手伝いをしていた。1947年の1月から料理屋で手伝い。とうきび団子を一日2個食べられた。日本人が引き揚げられたことをまったく知らなかった。紹介する人があり、20歳年上の中国人と生きていくため結婚した。すぐ子供ができ、夫の両親を世話しながら、夫の田舎で畑仕事をした。田舎は島だった。日本人は一人もいなかった。子供5人生まれた。生産隊で畑仕事しながら辛かったが、舅、姑が優しかったので耐えた。子供のために頑張ったが生き地獄だった。電気、水道もない。洗面器もない。何にもない暮らしだった。貧乏だったので子供達も学校にはあまり行けなかった。

 血便が出て島の外の遠くの病院に行った。奥城さんという日本人の産婦人科医に診察してもらった。その医師は一時帰国した経験があり、自分の一時帰国の手続きを手伝ってくれた。日本語を忘れていたので中国語で話した。日中国交回復も何も知らなかった。ラジオもなかった。

1981年に6か月の予定で一時帰国実現。国からの生活保護費を貰うなと弟に言われ、生活費もなく、タケノコの皮むきなどアルバイトをした。弟の世話ではいられなくて5か月で中国に帰った。1982年永住帰国。子供二人を連れて59歳だった。息子は18歳、娘は22歳。夫は80歳だったので日本には来なかった。兄嫁が謝ってくれてわだかまりも消えた。子供は日本語学校に入った。

終戦直後が一番辛かった。中国では、悪いことをしても「悪かった」とは言わない。

孫たちは中国語はできない。嫁も日本語。畑を借りていた時、隣の畑の人と言葉を交わすようになり、日本語は自然に覚えた。貧乏だったので、ゴミから古着や茶箪笥、ストーブなど貰って来た。今が一番幸せ。

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