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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
証言 へさんの場合
2015年11月 山梨県の中国残留孤児にインタビュー
【中国語と日本語(通訳付き)】
生年月日が明確ではないが、1937(1942?)年京都で生まれた。父親が兵役で上海に行っていたので、母と6歳の兄と3歳の妹と叔父さんとハルピンに行った。もともと父親が持っていた家があったので、そこに住んでいた。母親が病気で亡くなった。直後に終戦。花園小学校にみんな集まった。年寄りと子供が病気になり、お兄さんは現地の人に貰われていった。自分も3歳の時に貰われていった。養父は豊かだった。52年に日本人が多く帰国するようになって、養父母は自分を手放したくなかったので隠すようにイシュンに引っ越した。60年に養父が病気で亡くなるが叔父さんが援助してくれ、その後その息子と結婚した。養父には3人の妻がおり、養母は第二夫人だった。第一夫人がハルピン医大に進学することを進めてくれて医者になった。養父は工場長だった。
49歳で永住帰国。子供は28.9歳から18歳だった。20歳未満の息子だけ日本国籍が貰えた。子供たちは3年くらいかかって、日本国籍を取得した。帰国後は養母の世話するため、近くの工場で働き、お昼にはご飯を作りに帰った。家庭内では孫も子供たちも日本語と中国語と両方話す。日本に来てからは幸せ。空気はきれい。中国では年金生活だったら病院に行けない。生活できない。
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