top of page

証言 No.11さん残留婦人

2016年4月 関西に住む中国残留孤児・婦人にインタビュー。

 大正12年、朝鮮生まれ。おじいちゃんは朝鮮で知事をしていた。お父さんは慶応大学のラグビーの選手だった。子供の時は裕福だった。地元の朝鮮の人が家の野菜を作りに来ていた。兄弟は兄が2人、弟、妹、の7人兄妹。朝鮮の地元の小学校を卒業した。小学校の想い出。肝油を小さじいっぱい、毎朝口に入れてくれた。女学校に入るため、一人で日本に帰った。桜蘭女学校が、途中で閉鎖になり、洋裁女学校に入った。その後洋服工場で働いた。母の妹が黒竜江省にいて、お産の手伝いに呼ばれた。1945年6月4日、通行証明書を持って中国へ行った。

 8月9日 空襲、機銃掃射あり。目の前で知り合いが死んだ。駅に向かっていたが、ソ連軍が追いかけてきて山に逃げた。カボチャの葉っぱを食べて凌いだ。水は葉っぱの汁をなめて過ごした。1週間くらい山にいた。ロシア人の指示で朝鮮の村に行ったが、入らせてくれない。一団(60人弱)は後戻りして、住んでいた場所に戻ったが、すでに中国人が住んでいた。みんな捕虜になって収容所に入れられた。コーリャンのご飯と塩だけの食事で、子どもは赤痢で死んでいった。おばさんの3歳の子供も死んだ。

 

 1974年国費で一時帰国。51歳。2番目の兄の家で過ごした。日本は変わったと思った。妹、弟にも会った。2番目の弟は戦死していた。姉妹の間柄でも冷たく感じた。

 1994年71歳で永住帰国。大阪の帰国者センターから妹に電話したら、「どうして帰って来たの?これからどうするの?」と言われ、ガチャンと電話を切って、その後連絡していない。世話になろうと思って電話したわけではないのに。恥ずかしくて主人にも言えなかった。しばらくして古着を送ってきたが、全部捨てた。今も連絡を取っていない。生きているか死んでいるかも知らない。中国語が時々出てくるが、日本語で不自由はしなかった。はじめは次男家族、三男、夫と7人で国費帰国。長男家族と娘家族を置いてきたが、後で自費帰国した。子どもたちは最初は「中国人」と馬鹿にされ辛かったが、社長に会いに行って「母親は日本人なんだから中国人と馬鹿にしないでください」と頼んだ。その後は会社でも働きやすくなって、みんなに助けられて自立した。今は何も心配事なく暮らしている。近くに住む4人の子供たちが、順番で夕食のおかずを持って来てくれる。

 若い人たちに言いたいこと。中国人は親を大切にする。日本人ももっと親を大切にしてほしい。

 
bottom of page