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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
証言 オさんの場合
2013年7月から12月まで。長野県・埼玉県・神奈川県・東京都在住の中国残留孤児・中国残留婦人・中国残留邦人へのインタビューです。
通訳付き。2,3歳の時、満州に渡った。中国に着いて、ずっと病気をしていた。小学1年の時、終戦。父は終戦時離れ離れでどうなったか今もわからない。
1988年に脳梗塞になり、それ以前の記憶はほとんど忘れてしまった。
終戦直後の記憶。父親はいなくて、5人で逃げた記憶。お母さんと4人になってしまい、収容所へ。方正の収容所に着く前に母親は病気で亡くなる。姉弟3人になってしまう。中国人が収容所に女の子を貰いに来るが、姉は弟と一緒でないと嫌だと言い、残ってしまった。3人一緒に収容所から連れて行かれたが、着いてから、3人別々の家に引き取られる。家は貧しかったが、その家の3人の女の子と分け隔てなく育ててくれた。しかし、学校には行けなかった。
養父が亡くなって、1,2年後の23歳頃、その家を出た。人民公社の農業に従事。結婚。2男2女。文化大革命時、大変なことは何もなかった。日本籍だったので、配給が少し多かった。
1972年、国交回復時、日本に帰りたかった。中島多鶴さんが方正に来た。日本に帰りたいのに帰れないのでストレスが溜まり、脳梗塞になった。大使館にも公安にも頼んでいたのになかなか呼び出しがなかった。親族は誰も引受人になってくれる人がいないため、中島さんも積極的に関わってくれなかった。
1991年、やっと一時帰国の手続きをしてくれて、下の子(20歳)を連れて54歳の時、一時帰国実現。生活面はいいが言葉がわからないので大変と思った。親族は叔母さんはいいが、他の人は知らん顔。永住帰国の手続きは姉と叔母が保証人になってくれて1993年(平成5年)に58歳の時、実現。子供たちは全員自費帰国。財産を全部処分して。村の村営住宅に入り、2,3か月生活保護。仕事を探して子供たちは独立。新支援法になって「気持ちがいい。」
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