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証言 Uさん残留婦人

2013年7月から12月まで。長野県・埼玉県の中国残留孤児・中国残留婦人・中国残留邦人へのインタビューです。

昭和3年生まれ。樺太生まれ。家族13人、8人兄弟の5女。11歳の時、満州へ渡る。学校は小学6年から高等2年まで、校長先生が一人で教えていた。終戦後、トウモロコシ25キロで中国人に売られた。1991年、64歳で自費永住帰国。子どもは41歳から20歳まで6人。仕事をしてお金を貯めては順に呼び寄せる。
  

昭和15年に先生も招集された。今思うと、中国人が耕していた畑を奪って日本人が耕していた。大豆、小豆の出荷の割り当てが有り、16歳の自分も出荷しなくてはならなかった。やっと生活が楽になりそうになったら終戦。逃避行は1ヶ月間、当てもなく歩いた。妊婦が道ばたで子どもを産んだりしたが、誰も人のことを構っていられない。歩けなくなったお年寄りを集め、兵隊が首を切った。姉は母を連れて、私は妹を連れて嫁入った。死にたくない、いつかは日本に帰る、と思って生きてきた。妹が15歳の時、近くに嫁にやらざるを得なかった。二人の子どもを残して早くに死んでしまった。

後期引き上げの時、帰国のチャンスはあったが、「子どもは連れて行けない」と言われ諦めた。1972年、やっと帰れるかも知れないと思った。北海道、仙台、青森、岩手に手紙を書いたら、兄から返事が来た。一時帰国で兄に会えたが、あまり歓迎されなかった。

2回目の一時帰国の時、病院に24時間泊まり込み、下の世話などの介護の仕事をしてお金を貯め、子ども達の渡航費用を作った。今、家族の中では日本語で話している。子ども達も立派に成長した。日本は戦争に負けたのに、中国を馬鹿にするのが不思議だ。

  
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