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証言 No.23さんの場合

2016年10月 群馬県に住む中国残留邦人にインタビュー。

​常楽園デイサービスの皆さんに、全面的にご協力をいただいて、インタビューさせていただきました。
 インタビュー時、74歳。終戦時2歳。群馬県前橋市の出身。駅馬開拓団。昭和20年8月20日に皆で逃げてきたところがヤントンサン。お父さんはこの時亡くなっていたと後で、養父母から聞いた。
養父母から聞いた話:日本の両親は清水団長と親しかった。  2歳の頃はかなり病弱だった。このままだと船に乗って日本に帰るのは無理と判断し、団長と相談し、養父母に預けることになった。父親は消防団の団長だった。
11月に養父母のもとに行った。昭和21年お母さん、お姉さん、お兄さんは日本に帰った。小学校に行っている時は「日本鬼子」と言われていじめられた。養父母は学校に抗議に行った。最初は養父母は「自分の子、みんな嘘を教えている。信じないように。」言われた。20歳ころ、友人に教えられた。8歳の時、養母が亡くなる。養父は再婚した。5人子どもが生まれた。つらいことが沢山あった。新しいお母さんの態度は最初の養父とは全然違った。養父の父親、お爺さんが優しくしてくれた。小学校を出てから農業をした。食べ物のない時期は、クズ白菜や山菜を採って食べていた。いつもそういうものだと便が出なくなった。26歳の時、結婚したが、1か月で離婚した。ずっと一人だった。1976年、友達が親戚訪問に来ていろいろ話を聞いた。自分の事を詳しく書いて日本に手紙を書いたら、駅馬開拓団の清水団長から返事が来た。帰れることになった。1978年に永住帰国。36歳だった。親戚に会って感動して泣いた。あれから38年経った。お豆腐屋さんに勤めた。62歳まで働いた。朝早く大変だった。帰国後、1986年に中国のお嫁さんを探して結婚した。日本に帰って来て一番大変だったのは言葉でした。新前橋に日本語を学ぶセンターがあったが、途中であきらめた。沼田の友達が清水さんと仲良しで、自分も交流がある。帰国の時、同じ飛行機に乗ってきた。日本語ができないことが一番大変。日本に帰って来てからが一番幸せ。
 
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