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証言 No.13さんの場合

2016年7月 北海道に住むサハリン残留邦人インタビュー。

1944年、上敷香(ポロナイスク)生まれ。軍人の父親が留守中に終戦。母は仕方なく再婚。養父は帰国を反対。ロシア人学校に8年間。15歳で結婚。ロシア人がトップで、朝鮮人、日本人の順。お腹いっぱい食べたことはなかった。​サハリン同胞協会の小川さんが父親の身元など探してくれ、1992年、一時帰国実現。実の父に生まれて初めて会った。私は50歳になっていた。実感がなかったが、父親は泣いていた。

 1944年、上敷香(かみしすか、ロシア語ではポロナイスク)生まれ。父親は軍人だった。父親が用事で福岡に行っていたときにソ連軍がやってきた。終戦後、母はどうにもならないので現地の日本人と再婚した。姉は病気で亡くなった。継父の子どもが3人生まれた。1957年に最終の引き揚げ船があったが、継父は日本への帰国を反対した。継父は、酒を飲んだり博打をしたりし、家族にも暴力を振るった。母は本当に苦労した。福岡の実の父は、「再婚していてもいいから、その子どもたちも面倒見るから日本に帰って来るように」と手紙をくれたが、継父の反対で帰ることはできなかった。

 ロシア人学校に入って8年間通った近所の朝鮮人には、いじめられた。ロシア人がトップで、朝鮮人、日本人の順。子どものときは雑穀ばかりで米は食べられなかった。それも、お腹いっぱい食べたことはなかった。継父のせいで、母も姉妹も苦労した。私が結婚した後、継父は家を出ていき、どこで亡くなったかも分からない。

 家も面白くなかったので、15歳で結婚した。子どもが4人生まれ、子育てで忙しかったが、子どもが幼稚園に入ったあと、木工所で働いた。その後色々な仕事をし、最後には縫製工場で働いた。

ロシアでは、1970何年までは国籍が取れなかった。国籍がないと、大学にも行けなかった。移動も不便で、囚人みたいだった。その後、国籍が取れるようになり、ロシア国籍を取った。

 サハリン同胞協会の小川さんが父親の身元など探してくれた。1992年、一時帰国のとき、実の父に生まれて初めて会った。私は50歳になっていた。実感がなかったが、父親は泣いていた。福岡で父や母の親戚にも会った。

ペレストロイカになって仕事がなくなり、1999年2月に永住帰国した。長男家族を同伴した。孫も1人いた。日本に来てから、自分の出生届を父親が出していたことを知った。日本国籍があったことを、永住帰国手続きを所沢帰国者センターで、担当者から知らされた。

 サハリンの親族とはスカイプで話をしている。帰国後はユーラシア協会でロシア語を10年間教えていた。帰国直後は1日30隻もロシアの船が入っていたので、通訳もやった。今は船が来なくて寂しい。

 今までの人生を振り返って、特に辛かったということはない。一番幸せだった時というのもよく分からない。ずっとよかった。悪くはなかった。日本に来て悪くはなかったけど、ほんとうは生まれたところに住むのが一番いいと思う。私は、日本に来てもサハリンにいても同じ。悪くはない。

 

 

 
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