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​(7)早期帰国者 坂本先生の体験

2016年8月 北海道に住む満洲からの早期引き揚げ者にインタビュー

満洲で、終戦後も1年間、普通に国民学校が開かれていたという、貴重なお話(そんな経験をした方を私は知りません。初めてのことです。)を聞かせていただきました。
インタビュー時77歳。父親は公務員(工業試験場)として渡満した。家族でついて行った。
 1939年弘前市生まれ。兄と4人家族。父親は県工業試験場の職員。当時は満州へ満洲へという空気があった。新京の市役所に請われて行った。1戸だけで4歳の時、渡満。終戦は6歳、小学校1年。2年の時に引き上げる。
 4歳の時、母親の背中におぶさって渡満した。小学校は煉瓦造りでペチカのある本州にないような素晴らしい学校だった。満鉄がお金を出して建設した。現地の中国人とは別々の学校だった。敗戦後は逆になった。教卓も机もない何もない学校だった。終戦後も学校に通った。日本人の婦警がいて守ってくれた。翌年の秋引き揚げまで日本の国民学校に通った。父親は20年3月頃、召集されていなかった。母親に情報は早く来ていた。「新京も危ないから疎開しなさい」と。皆非難したが、妹が病気で、一家だけ取り残された。市役所の職員に声かけられ、大広間に避難しなさいと言われそこに泊まった。その夜激しい地上戦が行われた。兄たちが家を見に行ったらめちゃくちゃになっていた。家ないので、父親の職場の管理室で暮らした。ソ連兵が家探しに来た。ソ連軍が新京を支配していた。その後、二階建ての立派な建物で暮らした。本がいっぱいあったので、燃やして暖をとった。教科書は墨塗りだった。近くに満州人の市場があり、そこで買う事が出来た。父親が招集されたとき、退職金を貰っていたので、食べる物には困らなかった。女性は頭を丸坊主にしていた。母親もそうだった。それだけ危険だったのだと思う。帰る日が決まって、靴を作りに行ったが間に合わず、下駄で帰国した。妹をおんぶして帰ってきた。
 葫蘆島から佐世保に帰ってきた。船の中で伝染病が流行り、下戦後何日もテントで待機させられた。それから福島の浪江町に帰り、北海道に仕事があって、移住した。
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