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​(15)東安駅爆破事件の生き証人 平野さん

2016年8月28日から9月3日まで、北陸でインタビュー。宮岸さんが会長を務める北陸満友会の会員の方にもお声掛けしてくださり、現在の語り部の皆さんにお会いする事が出来、お話を伺わせていただきました。舞鶴・佐世保間を往復した船員さんのお話ですとか、東安駅爆破事件の生き証人や新中国建設の息吹を肌で感じて来た方々など、これまで聞いたことのないお話で興味深いものでした。

東安駅爆破事件を目撃したショックで、記憶が消えてしまった平野さん。お母さんの満洲での辛苦を思うと、多くの残留婦人の悲しみと重なり、途中から冷静にインタビューが出来なくなってしまって、もっとお尋ねしたいことがあったのに、申し訳ないことでした。

インタビュー時76歳。昭和15年、満洲生まれ。両親、祖父母、叔父さんの6人家族。両親の祖父母の家は田畑は少なく、父親は、京都の方に出稼ぎに行っていたかも知れない。東安駅爆破事件を目撃したショックで、記憶が消えてしまった。家のことも家族の顔も記憶にない。

終戦時は5歳。5人で開拓団の家を出る。

父は4月に徴兵で家にはいなかった。​シベリア抑留中、翌年2月に病気で亡くなった。30歳ちょうどだった。

 8月9日、東安駅、家族5人で駅にいて、目の前で爆発。無蓋列車の中にいた時、近くにいる人の足かなにか、体の一部が飛んできて、近くの人がギャーと声をあげ、その飛んでくる足と怖かったことだけしか覚えていない。叔父さんが書いた『我が苦闘の歴史』を読んで知った。
 おばあちゃんは、逃避行の途中、駅に来る前に山中に置き去りにしてきた。58歳だった。自分から「歩けないから置いてってくれ。」と。13日だった。15日に、叔父さんは開拓団の本部に集まるように馬で各戸に伝えている時に、砲弾に当たって亡くなる。17歳だった。9月26日に妹は食べる物もなく食べられなくなり亡くなった。母は身重だった。寒くなって来て11月27日に、逃避行の途中に赤ちゃんを産み落としていた。叔父さんの手記で後で知った。おじいさんも12月に発疹チフスで亡くなった。翌年、陸軍病院の看護婦をしていた叔母も19歳で結核で亡くなる。全部で8人が亡くなった。母に聞いても満洲の事は「忘れた。」という返事しか返ってこなかった。私も満洲引揚者という事は、学校でも言いたくなかった。母も私もお互いに満洲のことは触れないようにしていた。
昭和21年6月に舞鶴に帰ってきた。母方の叔父は、家を建ててまもなく終戦前の8月4日徴兵。新築の家に2日間しか住めなかった。シベリア抑留後、脱走した。偶然新京の駅で会った。お母さんと私と叔父さん(奥さんは叔母)と3人で帰ってきた。会えなかったら無事に帰ってこられたかどうかわからない。上司が脱走を認めてくれた。開拓団は酷い目にあっているからと言って。私たち家族は10日間ほど新築の家に住んでいた。葫蘆島からの船の中は膝附合わせ横になることもできなかった。
 帰国後は、家がなく戻るところがなかったので、親戚の家に寄せてもらった。牛小屋に畳を敷いて暮らしていた。帰国翌年小学校に入った。もう一人の家族もいて11人の食事だった。肩身が狭くお腹いっぱい食べた記憶がない。小学6年の時、その家のお母さんが心臓マヒで亡くなり、後妻として母親はその家の主と結婚した。親戚で揉めたらしい。その家の次男坊と子供の時に許嫁になり、大きくなって結婚した。母親はそれなりに苦労したと思う。同級生だった3男は高校進学。進学したかったけれど、出来ず、1年だけ専門学校に行き、その後は地元の農協に定年まで勤めた。母は籍が入っていなかったので、その家の主が亡くなった後、自分の家に引き取り、28年間一緒に暮らす。満洲の事は最後まで話さず、「忘れた。」と。
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