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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(9)満蒙開拓青少年義勇軍、シベリア抑留、北海道開拓
山田勲二さん
2016年8月 北海道に住む早期帰国者 満蒙開拓青少年義勇軍の後、シベリア抑留、その後北海道開拓移民として60年余を生きていらした山田さんにインタビュー。現在も農業に従事している。
お会いしてすぐに、「自分が植林したブナの森を見に行こう」と。しかし時間の事も気になり、帰りに案内していただくこととし、インタビューに入った。
北海道移民は、明治時代は平原で耕しやすい所が割り当てられたそうですが、満洲帰りの人々には、伐採した木の根を掘り起こすことから始めなければならないような土地しか割り当てられなかったそうです。息子さんがシステムバスにリフォームを勧めるも、頑なに今でも、お風呂はご自分で薪で焚いているということです。関東大震災当日にお生まれになったという92歳、後2週間で93歳になられる元気なおじいさんです。インタビューの前に、「ご苦労がたくさんおありだったでしょう。そのご苦労をお聞かせください。」と言うと、「苦労なんてものは、ありすぎて語りつくせない」と。インタビューで引き出せたお話の100乗くらいを想像して、お話を聞いていただければと存じます。
1923年 関東大震災当日、群馬で生まれた。尋常小学校、高等小学校を出て、満蒙開拓青少年義勇軍に昭和13年、15歳の時に入った。内原訓練所で2か月間訓練。同級生が一人一緒だった。訓練は厳しかった。40キロ歩いたり駆け足したりした。300人が下関から釜山、大訓練所が勃利にあった。満鉄関係の虎山訓練所が入植地になった。中国人の集落を追い出して、鉄道警備を主要任務にしていた。16歳以上の者は、銃を持たされて実弾も入れていた。現地人の畑と開拓もした。現地の人が水田に作り替えて米も作っていた。冬越しホウレンソウ
も作っていた。20歳になった人から入隊して行った。志願しないで本部の仕事をして20歳になってから兵隊に行った。ウラジオストックから30キロの国境守備隊、要塞地帯だった。トウネイ県トウスイには1個旅団、10個中隊くらいいた。(約3000人くらい)軍隊教育一本だった。歩兵だが、実弾も持たされた。1年くらいで、旅順の下士官養成所に行った。当時19歳に兵役を引き下げた。弟が満蒙開拓団で入植していたが、繰り上げ徴兵で、自分がいたところの同じ中隊に行っていた。弟は生き物が好きで、中隊長の馬当番をしていた。
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