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(14)早期帰国者で身元引受人、自立指導員を経験した小関さん

2016年8月28日から9月3日まで、北陸でインタビュー。宮岸さんが会長を務める北陸満友会の会員の方にもお声掛けしてくださり、現在の語り部の皆さんにお会いする事が出来、お話を伺わせていただきました。葫蘆島・佐世保間を往復した船員さんのお話ですとか、東安駅爆破事件の生き証人や新中国建設の息吹を肌で感じて来た方々など、これまで聞いたことのないお話で興味深いものでした。

 「人間万事塞翁が馬」ピンチとチャンスは表裏一体と思って生きてきた。終戦後は八路軍に入り、新中国建設に力を尽くした。高倉テルの身の回りの世話をするという稀有な経験もした。最後の引き揚げ船、白山丸で舞鶴に帰国。帰国直後は日本語を忘れているような状態だった。中国での経験、中国語を活かし、身元引受人、自立指導員をする。

1933年、昭和8年生まれ。インタビュー時83歳。中国からの帰国は昭和33年。(さんざんな男」)家は山形のお寺。上杉鷹山の祈祷所、記念碑もある。上杉鷹山が登った白鷹山がある。昭和8年7月、山形は40度を超えた日がある。飢饉の年だった。山形は県を挙げて「満洲へ」。親兄弟5人と叔父の一家、向こうで生まれた子供2人。8人死亡。昭和15年、東京で紀元2600年記念祝賀大会を見てその足で満州へ行った。猟銃2丁もって行った。8歳だった。のらくろ大好き少年だった。太平山開拓団。在満国民学校に通った。父は鋳造所の責任だったが、鋳造所に放火され、責任をとって辞任した。部落の若い青年に言いがかりをつけ連れて来て伝染病菌を植え付けて返す。その部落には伝染病が流行り、中国の衛生局がその部落を焼き尽くす。それが三光作戦のやり方。山形のお寺をアジトにして研究をしていた。国民学校に二年通ったが牡丹江に引っ越した。父親の知り合いを頼って行った。軍事の要所だった。野菜を作って納めた。軍隊と一緒に行動していた。父は終戦後は軍人と一緒にロシアに連れて行かれた。鉄道の線路の拡幅工事に携わっていたが、牡丹江の陸軍病院で亡くなったと知人から聞いた。
終戦後も軍隊と一緒だったが、弟が泣くと「殺すぞ!」と軍人に脅され母は謝っていた。東京城鏡泊湖の香川県開拓団の国民学校に通った。軍隊と一緒に野宿。雨続きで死体(逃避行について行けない人々)からガスが出て燃えるのが見えた。トウモロコシやジャガイモを盗んできて鉄兜を鍋にして食べたりした。二,三か月。食べる物が亡くなりさあむくなり、元の開拓団に帰るように言われ、
帰ったが家は荒らされてがらんどうだった。ドア無冠で火を燃やしシラミを焼いた。一冬こした。母はそこで亡くなり行きの中に埋めた。選考ポン上げることもできなかった。母は四十代だった。弟と姉と三人。姉と私は中国人家庭に。姉は17歳、弟は  歳。私は  歳。その家は棺桶が用意されていてお金持ちだった。身体障碍者がいて姉は嫁にされると直感した。大きい農家だった。2,3か月いたが、姉と牡丹江に向かって逃げた。狼に会って助かった。牡丹江に行ったらみんな帰った後だった。コークスを売って野宿している時、「軍隊に入れ」と言われ生き延びた。最初は日本人軍医の世話をしたが、日本語は一切話せなかった。姉は傷病兵の給食や看護助手のような仕事をしていたが、あまり会う事がなかった。行軍しながら仕事をした。
~略~
太平山開拓団の伯父一家4人は全員死亡。
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