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​(10)行軍中、麻山事件を通りかかった里瀬 勝さん
     <シベリア抑留>

    2016年8月 北海道に住む早期帰国者 元軍人にインタビュー。

インタビュー時、93歳。記憶がしっかりしていて、なかなか聞けないようなお話を聞かせていただきました。昭和23年6月帰国後、ずっと戦争の話、400人以上が集団自決した麻山事件の事、誰にも何も言わなかったそうです。30年以上たってから、ちょっと書いたものを鈴木幸子さんが見つけて、会いに来てくれて、それから話すようになったとのことです。麻山事件で生き残った子供だった鈴木幸子さんと、翌日行軍で通りかかり現場を目撃した里瀬さんは、新聞やテレビでご一緒に取材されることも多かったようです。しばらく学校などで乞われると、語り部もやっていらしたとのことです。

​(死因の齟齬について)鈴木さんは「上からと下からと鉄砲で撃たれた」と。里瀬さんは「血は見なかった。青酸カリでは」と。400人以上ということですから、数十人単位での集団自決があって、いろいろな方法があったのではないかと推察します。
大正13年生まれ。インタビュー時93歳。8人兄妹の長男。祖父もいた。父親は役場の職員。その頃は漁業が多かった。鮭マスタラシシャモ、昆布などが採れた。子供の頃はチャンバラをして遊んだ。20歳で徴兵検査で合格、入隊。本人だけ、ソ連と満洲の国境付近に行った。19年3月20日、広島の旅館に集まるようにという指示。玄界灘を超えて釜山、牡丹江、密山と行った。国境警備をした。一部は沖縄に行った。19年に7月だった。20年2月、国境を後退し、ハチメンツに行った。そこでも国境警備をしていた。ソ連が攻めてくる前提で演習をしていた。7月1日に下士官の教育隊に行って新しい訓練をやった。翌年の8月9日、朝、飛行機が飛んできて爆撃もされた。9日の命令は「林口駅に集まれ」だったので、列をなして徒歩で向かっていた。13日の朝6時半ごろ麻山事件の現場を通過した。部下を休ませて自分は見に行った。老女の「兵隊さん助けて!」赤ん坊の泣き声などが聞こえた。ハタホ開拓団の兵役に行かなかった男たちが5,6人いた。「ロシアの人に凌辱されるよりいいから、殺った。」と。
びっくりした。「だれが責任をとるのかと」 12日は戦車の攻撃があったので、どうにもならないと思って自決を選んだんだと思う。民間の人も、戦人訓があって、「死してもなかれ」皆
昨日の事のような事件で死ぬまで忘れられない。当時はそこだけが樹がなくて草地だった。
前に戦車が5,6台、弾のとんでくる方から下の方に下がった。
9,10日と雨降りだった。道端でお産をしている人もいた。悲劇だった。小さい子どもが可哀想だった。小さい子どもをおぶったり、手を引いたりで大変そうだった。手を引いていた子がいなくなったりした。中国人の家の軒下に置いてきた人もあるようだ。4,500人の集団自決は珍しいのではないか。
12日、13名はは空き家の泊まって仮眠して出発した。13日、上りから下りの道に入り、危ないので散会した。2名だけ生き残った。話し合って道路でないところを通って牡丹江に向かった。8月末に朝鮮人から敗戦を聞いた。牡丹江に8月29日についた。責任者に会って、状況を伝えた。武装解除の命令が9月1日にあった。その後は捕虜になり少しの間収監され、歩いて何日もかかってシベリアのアルジオン炭鉱に行った。満洲領内では、畑(マクワウリ、そばの花)に入って食べ物を盗んで食べた。ソ連領内では、1日300gの黒パン。馬鈴薯を盗んで食べたりした。炭鉱では最低の生活。ノルマはきつかった。穴の中で石炭堀をした。発破かけてスコップでコンテナに積んだ。8時間の3交代。飲み食いできず辛かった。みんな栄養失調になって死んでしまった。炭鉱の穴は、マイナス30度の外仕事より楽だったと思う。3年間続く。バラックの木造2段ベット。上に2人、下に2人。月に2回くらいシャワーがあった。宿舎では寝ているだけ。1枚つづりの日本新聞があり、共産主義の話などがあった。帰りたいから万歳拍手した。船に乗っても安心できなかった。帰国後、代々木本部に直行した人もいる。舞鶴ではアメリカがいろいろな情報を得るために、詳しく聞かれ4日間留め置かれた。それから北海道に帰ってきた。北海道電力に復職した。赤狩りで会社を首になった人もいたが、僕はなかった。
今、世の中が変わって戦争でもやるような話がある。戦争は人間同士殺しあうこと、こんなバカなことはやっちゃいかん。絶対戦争は反対。実際戦争をやった人間として、戦争はやっちゃいけない。
<追加>
連隊と師団の関係について。
階級は?→陸軍伍長
機関銃部隊だった
同期の方で沖縄に行った人のその後は?→同級生が10名沖縄で戦死している。この街では30名くらい戦死している。密山県の部隊が沖縄に行っている。
軍人と開拓団員の死亡率は?→そんなに変わらない。
7月15日の空襲では?→1人亡くなった。
昭和23年6月帰国後、ずっと言わなかった。30年以上たってから、ちょっと書いたものを鈴木幸子さんが見つけて、会いに来て、それからだ。
戦争の話は親にも兄弟にも言ったことがない。鈴木幸子さんに会ってするようになった。
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