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証言 ユさんの場合

2016年1月 東京都のサハリン残留邦人にインタビュー

  1947年生まれ。小さい時は田舎で過ごしていた。父は木こりだった。今も自然が懐かしい。家にストーブはなく大きいドラム缶で暖をとったり料理をしたりした。鮭を川で捕って食べた。棒で叩くと鮭が捕れた。山菜もたくさん取って食べた。8人兄妹。父親は毎日疲れていたので、皆で肩たたきした。家の中では日本語、家の外では日本語を使うことができなかった。6歳前に朝鮮人学校に入った。週2回ロシア語を習った。父親は教育に厳しかった。学校では男の子は少しはけんかしたかもしれないが、割と仲良くできた。10人中2,3人が日本人だった。父親は北海道から金を掘る仕事に行くつもりだったが、炭鉱で仕事をした。働き者だった。勤勉だった。ロシア語ができないので、長期休暇をもらったとき、首になったと思って次の仕事についた。働き通しだった。

 両親は73年に初めて里帰りで北海道に来た。親戚に会えてとても嬉しかった。北海道に残していった二人の兄弟に初めて会うことができた。27歳くらいの時だった。兄と手をつないで襟裳に行った。「兄がいる」ということを実感した。兄はアクアリウムが趣味だった。サハリンの兄も偶然のことにアクアリウムが趣味で、深い血のつながりを感じた。後になって、その時、日本語ができず日本の文化も知らず失礼なことをしたり言ったりしたことを後悔している。

 その後、両親は、今のように日本に帰る手立てがなく、ロフトフで亡くなった。

 

 子供の頃、最初の7年間は朝鮮学校に通った。その後ロシア学校に4年間通った。学校では勉強を頑張ってユジノサハリンスクの教育大学に入れた。担任の先生が優しくしてくれた。大学生の時結婚し、卒業する時は子供は8か月だった。ずっと仕事をするのが夢だったので、25年間教員生活を送った。韓国人の義父母(舅、姑)はとても厳しかった。その後、離婚し再婚した。教員の給与は低かったが、生徒たちが女性の日に花束を持って来てくれて、その日で苦労がすべて報われた。

 戦後生まれは一時帰国はなかったので、最初から永住帰国。2005年6月実現した。来日してすぐ乳がんの手術をした。そして10年たったが元気にしている。ロシアにいたら死んでいたかも知れない。

  現在、家庭菜園を楽しんでいる。姉妹、兄弟で情報交換して教えたり教えてもらったりして生活している。

今はスカイプあるので、便利。今が一番幸せ。

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