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2015年9月 サハリン残留邦人 近藤孝子さんにNPO日本サハリン協会でインタビュー

  証言 近藤孝子(ヒ)さん<サハリン残留>
 

 1931年生まれ。サハリンの珍内生まれ。インタビュー時85歳。祖母が夫の死後、北海道から樺太に開拓民として入植。ある日、森林の伐採運搬をしていた父が怪我をし、入院。叔父の家で大きくなる。大谷で14歳の時終戦。22日に豊原の爆撃があった。危機一髪で助かった。ロシア人の略奪レイプなど酷かった。泥棒に入られても、何も言えなかった。年頃の娘は男の格好をしていた。外には出歩かなかった。46年の初めから少しは良くなった。村長はロシア人、その下は朝鮮人。村長の命令がなかったら引き揚げ船に乗れなかった。命令のない人は乗れなかった。叔父が林業に明るかったので、重宝され、引き揚げ命令が何度か取り消された。17歳で朝鮮人と結婚。夫は日本の教育を受けていた。病死した妻との間に6歳、3歳の子があり引き取る。その後子供が5人生まれる。食べ物がなくてほとんど山菜を食べて暮らした。黒い三番粉の小麦粉が配給された。1958年、日ソ国交回復。日本への帰国申請を出しても断られた。帰国しても差別されるから苦労すると言われていた。諦めた。暮らし行くことが一番でその他のことは考えられなかった。どういう風に暮らしてきたか今考えてもわからない。子供たちはみな大学、専門学校を卒業した。38歳の時、夫が病死。小沼に引っ越しコルホーズでハウスの仕事をした。トマトやキュウリを作った。その後、年金を貰うまで洋裁師をする。夫の姉が「7人の子供を育てていくのは無理」と、再婚を進められ再婚する。1977年医療ミスで夫が亡くなる。
 1982年第1次帰国に参加。1990年頃からサハリン事務所のに出入りするようになる。同じ境遇の人と会うこともでき生きがいになった。1995年から4年間、会長職を務める。曽野綾子さんが来て、日本語学校を作ってくれた。北島三郎さんが来て、みんな喜んだ。日本に帰りたいと喜んでいたのに、帰国直前に倒れたり亡くなった人もいた。2000年永住帰国。一家族と一緒に。楽しいこと知らないで暮らしてきたが、この事務所に来るのが愉しみ。
真岡、エストルは艦砲射撃にあった。機銃掃射で亡くなった人も多かった。日本軍はほとんどいなかった。朝鮮人は結構残っていた。
 ソ連崩壊後は食べ物もなく物もなく年金も減らされ暮らしに困り苦労した。
若い人に言いたいこと。二度と戦争の無いように。
 
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