アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
No.53 庄山紘宇さん ( 『 孤児編 下』 証言56) 熊本県
「清明の日。1968年4月5日。人民公社の村の幹部を集めて、大会が開かれた。それで前に立たされて、三角の帽子かぶって、『現行反革命分子』って書かれたものを前にぶらさげて、叩かれたり、足で蹴られたりした。4月5日から9月30日まで、人民公社で、1か月に2~3回も大会がある。大会のない普通の日はトイレ掃除。夜は自己批判の文章を書かされて、何度も書き直しさせられた。そのとき30歳よ」
中国在住46年前後 戦後在住42年前後 一時帰国から永住帰国永住帰国に切り替える
証言者のプロフィール
1938(昭和13)年 1月 熊本県玉名郡菊水町で生まれる
(不詳) 3,4歳の頃、両親と3人で渡満
黒竜江省(コクリュウコウショウ)東寧県(トウネイケン)へ その後、弟、妹が生まれる 父は東寧県で農業基幹養成所の開校に従事 教育にも携わる
1943(昭和18)年 5歳 父が召集 終戦で捕虜としてシベリアへ行き、帰国する途中で亡くなる
1945(昭和20)年 7歳 小学校入学 8月9日、母と子ども3人で逃避行、東京城(トンキンジョウ)の収容所に入る
終戦後、偶然、捕虜としてトラックで連れて行かれる父と会う
冬に収容所で母と弟が亡くなる 妹と2人、中国人の家に引き取られる
1946(昭和21)年 8歳 中国の小学校に入学、その後中学まで通う
1955(昭和30)年 17歳 ハルピン農業機械専門高校に入学 3年のとき農業経済学校に転校
1958(昭和33)年 20歳 5月に農業経済学校を卒業、教員になる 8月興安(ホウアン)農業高校に異動
1960(昭和35)年 22歳 結婚 (子どもは4人)
1962(昭和37)年 24歳 興安市農業局へ異動
1963(昭和38)年 25歳 養父母の希望で東京城人民公社に勤務 その後17年間両親と同居
1968(昭和43)年 30歳 文化大革命の4年間、大会で自己批判、下放政策で重労働をさせられる
1980(昭和55)年 42歳 養父母が亡くなり、牡丹江(ボタンコウ)農業高校に異動
1985(昭和60)年 47歳 9月 残留孤児第8次肉親捜しで帰国 親戚が判明
1987(昭和62)年 49歳 妻と子ども4人と共に一時帰国 6か月後、永住帰国に切り替える
1989(平成元)年 51歳 牡丹江農業高校に戻るが、1年後、退職して日本に再び帰国
1992(平成4)年 54歳 日本語学校の寮の管理人 妻は寮の食堂で働く
1995(平成7)年 57歳 福岡でマンションの管理人になる
2000(平成12)年 62歳 地元に戻り、中国語講座を始め、今まで16年以上続けている
2013(平成25)年 75歳 妻が心臓病で急逝(75歳)
インタビュー 2015年5月8日 79歳 場所 証言者のご自宅