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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
証言 No.25さん<残留婦人>
2016年9月 群馬県に住む中国残留婦人にインタビュー。
インタビュー時91歳。大正14年、福岡県生まれ。両親が病気で亡くなり、叔母が満州にいたので、叔母を頼って17歳で満州に行った。鶴岡炭鉱に行った。
8月8日に叔母の家族は避難。9日に会社に行ったら、皆でおにぎりを作っていた。ソ連の飛行機の音が聞こえ、「家に帰って5分で戻るように」と言われた。駅に集まって無蓋貨車に乗ってどこかに行った。貨車を降りて歩いた。荷物を全部捨てた。子供を抱いたまま亡くなった人もいた。また貨車に乗ってジャムスの飛行場に着いた。8月15日。蒋介石の写真がいっぱいだった。「日本が負けた?」信じられない。21歳だった。ソ連兵が来て「女を出せ!金を出せ!」と言った。2,3人犠牲になった人もいる。
長春に着いた。食堂で働いた。どこに行っても、「嫁に来い」と言われ、逃げ続けているうちに、中央軍と八路軍が対峙している橋に着いた。橋の近くの雑貨店で働いていた。夜中に戦闘があり、朝になると橋の下に大勢の人が死んでいることもあった。そこに1年ほどいた間に、他の日本人は帰国してしまった。戸籍調査があり、「日本人をここに置いては駄目。」と言われた。近所の親切な人達の計らいで「貧乏だがいい人」と結婚することになった。青酸カリの袋を持っていたが飲まなかった。いつか日本に帰れるかもしれない。諦めて結婚。昭和21年の夏。夫は優しい人で大事にしてくれた。
11月ごろ夫は兵隊として連れて行かれた。冬12月にお産した。食べる物もない。夫の友達が助けてくれた。飢え死にしなかった。1年経っても子供は体重が変わらない。3月ごろ知り合いのお産の手伝いに行った。そこに、軍隊から戻った夫が私を探しに来た。夫が持って来たコウリャンのご飯を干して乾かして袋に入れた。
国民党軍が負けて、町から出られるようになったが、戸籍もなくて出ていけない。並んで2度目に出られた。道端でコウリャンを炊いて食べた。道端に寝た。リヤカーを売って、食べ物に交換した。吉林に行ったが難民がいっぱいだった。汽車で炭鉱に連れて行かれ、そこで働いた。1か月後、長春が解放され、戻った。夫の友人が本渓で料理人になり、私達にも来るように誘ってくれた。本渓に行き、夫は炭鉱で働いた。最初の子供は死んでしまった。その後、子供は全部で6人生まれた。下方政策で田舎に行っていた娘が帰省した時、布団が足りなくて、46歳の時に次男を妊娠。日本に帰るまで、卵は食べられなかった。お正月にお肉を少し貰った。文化大革命の時、長女は大学の試験を受けるつもりだったが、母親が日本人だからダメ。長男と三女は、下放政策で学校がなくて何にも勉強していない。私がそろばんや計算を教えた。四女と次男の時は学校があった。
国交回復後、1975年に千葉に一時帰国した。4歳の次男を連れてきた。高麗さんから連絡があり、帰れるようになった。1990(平成2)年に65歳で永住帰国。19歳の次男、33歳の三女、26歳の四女とその家族(夫33歳、子ども2歳)と一緒に、6人で帰国した。高麗さんが就職先も探してくれた。中国に残った子ども達の帰国のために、社長が保証人になってくれた。私も一度中国に戻り、いろいろな手続きなどした。舅、姑の同意書も必要だった。
帰国後、私以外は誰も日本語が話せなかったので、学校、保育園、買い物についていった。運転免許証を取るための勉強も手伝った。息子と娘の夫は同じ職場で働いた。職場でのトラブルは1度あった。旧正月は休みたいので、前もって頼んだが、忙しくてダメと言われ、勝手に帰った。社長が理解してくれて、大きな問題にならなかった。
弟は、密山炭鉱でしばらく働き、1950年ごろ、19歳で帰国できたようだ。平成12年に亡くなった。
人生を振り返って、一番大変だったのは、夫が兵隊に引っ張って行かれた頃。食べ物もなく、一人で子供を産んで、心細かった。そんな苦労しても泣いたことない。今、一番幸せ。
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