アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
証言 No.29さん<残留婦人>
2016年10月 山形県に住む中国残留孤児にインタビュー。
「12人の強行帰国」メンバーのひとり。昭和5年生まれ。インタビュー時86歳。
「12人の強行帰国」メンバーのひとり。昭和5年生まれ。インタビュー時86歳。山形県南陽市沖郷村で生まれた。両親、兄2人、妹、弟の7人家族。沖郷村の小学校へ4年生まで通った。昭和17年の2月に中国へ出発した。家族は行きたくなかったけれど、我慢して行った。開拓団は畑をあまりくれなかった。食べ物は足りなかった。供出のトウモロコシを採りに行って60㎏の袋を担いできた。満洲でも3年間は板子房(バンズハン)開拓団の小学校に入れた。
終戦間際に、「小学校に集まれ」という放送があった。午後6時頃。宝山開拓団と山形の開拓団と600人くらい集まった。8月16日だった。3つの部屋に分かれて、一部屋200人ずつ入り、きつきつだった。「戦争は負けた。自決します」と言われ、手榴弾が3本部屋に落ちた。同じ部落の佐藤さんのひざが割れた。すぐ死んだ。10歳の弟も亡くなった。西門から7歳の妹、53歳のお母さん、15歳の私、3人で逃げた。トウモロコシ畑に入って隠れた。鉄砲がドンドン飛んできた。そこから見ると、学校が燃えていた。中国人の瓜畑から取って来たを瓜を1つ食べただけで、その後9日間何も食べなかった。雨水を飲んで。兄さんは兵隊にとられ、シベリアに連れて行かれ、2人の兄は亡くなった。一人の兄は4年間我慢してシベリアから帰ってきた。
学校から遠く離れて、南の方のリョーソーフーズという村に行った。粟のご飯をご馳走になった。国という人が父親と友達だった。国さんの家に連れて行ってもらって、お腹いっぱい食べさせてもらい3日間泊まった。その後、トウモロコシ畑に隠れていたら、鎌を持った中国人がトウモロコシ畑に来た。「面倒見てあげる」と言われ、ついて行った。李さんはお菓子を買ってきてくれた。18歳までそこで暮らした。お母さんは養父と結婚した。馬車で一日かかって遠くに連れて行かれた。30歳くらいの人と結婚させられた。宝山開拓団の日本人が、家に入ってきた。友達になった。夫は人民公社の幹部だった。少しだけ畑も貰った。ずっと働いてきた。夫は、夜12時くらいまで会議会議で、疲れて胃がんになって52歳の時亡くなった。3か月後、村長さんの勧めで再婚した。3歳、7歳、10歳の子供がいたが、大事に育ててくれた。夫は優しい。
竹越さんから「日本に帰りましょう」と手紙が来た。一時帰国の時、1976年。日本に来て嬉しくて倒れてしまった。竹越さんと青木さん、国友さんの世話になり、国際病院に入院した。栃木の兄のところに半年いて帰った。身元引受人がいなくて永住帰国がなかなかできなかった。12人の強行帰国。会議があって東京に3日くらい泊まった。1983年に山形に一人で永住帰国した。子どもたちは自費で呼び寄せた。最初お寺に3か月いた。そこで庭掃除、墓掃除などをした。お金は一銭もくれなかった。お寺の孫さんに生活保護からお金をあげなくてはならない。その後、違う人が保証人になってくれて、違う仕事をした。家を借りて、3男を呼び寄せた。役場で言われて引越しをした。新しいアパートに入れて幸せだった。今までを振り返って、一番つらかったのは、終戦直後。妹は結婚してお産で亡くなった。お母さんは何時亡くなったかわからない。知らせもなかった。