アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(5)早期帰国者 高橋 章さん
『元満州中川村開拓団ー私の敗戦回顧録ー』(協有社刊)を2015年6月出版。今の安倍内閣への危機意識から、戦争体験を若い人たちに伝えたいと出版したそうです。2015年12月埼玉県でインタビュー
インタビュー時81歳。小学3年時、9歳、昭和18年渡満。戦争で負け始めていて東京の従兄弟たちが20名くらい疎開してきて大変だった。
馬を使って運送業をしていたが、馬に徴発が来て、軍隊にとられ仕事ができなくなった。仕事ができなくなり、また馬を買い、仕込んで使えるようになるとまた軍隊にとられた。乳牛を飼うようになった。秩父銘仙の染物屋をやっていたが仕事がなくなった。「満州に行かないのは国賊」と非難され満州に行くことになった。両親、姉2人、弟、妹、赤ん坊の弟と8人家族で渡満した。長瀞の桜のきれいな時だった。
中川開拓団は現地の人を追い出して、土地も奪って入植した。在満国民学校に通った。通学が楽しかった。学校では「満州読本」「シナ語」が増えた。湿地帯で釣りや鴨の卵採りなどして遊んだ。
20年5月6月7月頃、飛行機が毎日のように南下していた。4月にソ連は日ソ不可侵条約を廃棄する旨日本に通知していたので、軍は撤退する命令を受けていたようだ。
学校では木の鉄砲で練習をした。7月に父親は招集された。開拓団には年寄り4人だけになり、苦力も来なくなった。
中川開拓団は張作霖の地盤だった。大地主がたくさんいて、表は日本人に協力していたが、裏では強い民族意識を持っていた。
9月3日にソ連に捕まるまで日本が負けたことを知らなかった。歴史は時の権力者が都合の悪いことはみんな消しちゃう。天皇の名前を学校で覚えさせられた。11日に県知事の避難命令は出ていた。13日、エンジャの駅で空の列車が来たが、団長は「我々は満州に逃げるために来たのではない。乗るな!」と言われ、列車を見送って開拓団に帰った。
8月15日、会議があり鉄砲と刀を下げて行った。会議の内容は教えてくれず、非難することだけ決まったと。15日、一斉に現地人から襲撃され、64人が亡くなった。ウージャトンは唯一襲撃されなかった。現地人と仲良くしていた。マージャトンはほとんど殺された。中国人への扱いが分けたようだ。