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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
証言 No.24さんの場合
2016年10月 群馬県に住む中国残留婦人にインタビュー。
前橋市の常楽園デイサービスの全面的な協力を得て、インタビューさせていただきました。
インタビュー時、78歳。長野県飯田市で生まれ、家族で満蒙開拓に行った。お父さんは満洲に行ってから病気で亡くなった。小学校の1年生に少し行った。毎日並んで学校に通った。名前を書けるようになった。戦争負けた時、お母さんと一緒だった。2番目の兄さん、お姉さん、妹。妹は寳正の避難所で死んだ。1番上野兄さんは兵役志願してシベリアから日本に帰国。4人で中国の家に泊まった。その家が娘が欲しいという事で、私が選ばれた。おねいちゃんは隣の家の娘になった。お母さんと2番兄さんは隣村に行った。養父は学校を出ていて優しかった。後でお母さんとお兄さんと私と3人を養ってくれた。冬は寒くて学校に行けなかった。春になったら少し行った。農作業が忙しいと学校に行けなかった。学校までは10数キロあって、途中狼も出たので、あまり行けなかった。お姉さんはその家の息子と結婚した。食べ物がなくて、カボチャ、ジャガイモふかして食べたり、山菜を採りに行って、干して保存したりした。
夜間学校で、歌や芝居をして、お正月は3つの村をまわって披露した。楽しかった。
ずっと、農業の手伝いをしていた。20歳で結婚。夫は大工さん。子供は4人。文化大革命の時、自分が日本人という事はみんな知っていたが、虐められたりしなかった。
前橋に住む従兄弟が保証人になってくれて、一時帰国、永住帰国した。日本は羨ましかった。中国は貧乏でやっと生きてきた。長女(16,7歳)と次男(5歳)を連れて1時帰国した。2番目の兄さんが先にここに永住帰国。喘息で76歳の時亡くなる。大阪にお姉さんは住んでいる。最初はこちらに来た。今はボケてしまった。電話も来ない。
永住帰国の時は19歳、17歳、15歳、8歳。日本語は忘れていたけれど、すぐ思い出して話せた。子供たちは日本語覚えるの早かった。
お母さんは「満洲娘」をよく歌っていた。
最初は草取りなどの仕事をした。小さな工場で、働いた。夫はなかなか日本語はダメだった。会社も3日目に行かなかった。
今、ここのデイサービスでは、中国語もできるし、歌も歌えるし、とても楽しい。
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