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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
No.39 宮里竹子さん (『 孤児編 下』 証言61) 沖縄県
「私は戦争があったから、自分が日本人なのに、今でもこんなして日本語がうまく全部しゃべれないさ。だけど、死ぬまで、できるだけ日本語いっぱい勉強して、日本のことをいっぱい知りたい。今までしょっちゅう2人とも日本語を勉強してる。いろんな本なんか読んでる。理解してほしいね。なんで中国の人が、私たちをあんなに憎んだのか、それを分かってほしい」
中国在住37年 戦後在住37年 一時帰国から永住帰国まで7年
証言者のプロフィール
1941(昭和16)年頃 両親、祖母の3人で渡満 黒竜江(コクリュウコウショウ)省臥牛吐(オニュウト)開拓団へ
1945(昭和20)年 6月 黒竜江省斉斉哈爾(チチハル)市外、臥牛吐で生まれる
生後40日で父が徴兵される 2年後シベリアから帰国するが、1年後に亡くなる
戦後、母は中国人と結婚 その後、弟妹が6人生まれる
1964(昭和39)年 11月 19歳 中国人と結婚(子どもは1人)
1975(昭和50)年 8月 30歳 母と共に一時帰国 5か月間沖縄に滞在する
1982(昭和57)年 37歳 夫、娘と共に永住帰国 帰国後車の運転免許を取る
1984(昭和59)年 中国の継父が亡くなる
1985(昭和60)年 母が帰国の手続き中に亡くなる(66歳)
1986(昭和61)年 職業訓練校で洋裁を習う 夫は調理師免許を取得
1987(昭和62)年 夫が中華料理の仕事に就く
1990(平成2)年 夫が自分で中華料理店を始める
2008(平成20)年 夫が心臓病の手術を受け、18年間続けた店を閉める
インタビュー 2017年1月25日 72歳 場所 証言者のご自宅
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