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    証言 タさん残留婦人
2015年8月、北海道に住む中国残留孤児・残留婦人・サハリン残留邦人にインタビュー

小学校を出た頃、父は美唄で自営業をしていたが失敗して、家族で満州へ。木の根を掘って開拓をした。瑞穂部落に学校もあった。作物も豊富に採れた。高等科を出て青年学校に行っていた時、終戦。夜襲撃があり朝逃げ出す。ソ連の飛行機から終戦を知らせるビラが降ってきたが、誰も信じなかった。

方正の本部から元開拓団の建物を収容所に使う。12月、18歳の私は中国人にさらわれる。妹は12歳、弟8歳。毎日毎日夥しい数の人々が亡くなっていく。零下20から30度。土間に干し草を敷き、蓆をかけて寝た。他の家族はハルピンに行って全員亡くなる。

 10月ごろまでソ連がいた。それまではスープ1杯くらい配給があったが、その後は配給が無くなった。「どうやって生きてたんだろうね」

貧しい農家だった。とうきびの団子、とうきびのご飯。子供が8人できた。10人家族分の配給が、1日とうきびコップ1杯。粟の皮も食べた。文化大革命時、会議があって、いいことを沢山いわされた。部落の人と仲良くやってきたのでいじめられることはなかった。

兄とは手紙のやり取りしていた。

1年間、日本に里帰りもできた。当時は日本語わからなかった。永住帰国(昭和57年)時、子供3人と私は国のお金。主人は中国籍だったので自費。日本では兄1人、姉3人存命。面影があった。助かった、よかった、と、思った。

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