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証言 No.22さん残留婦人

2016年9月 北陸石川県に住む中国残留婦人にインタビュー。

​若い時から一生懸命働きづめで生きていらしたせいか、とってもお元気でした。それでも、90歳過ぎたらいろいろガタが来たと話しておられた。兄が鞍山開拓団だった。両親な亡くなり、ひとりで兄を頼って渡満した。

 大正12年、石川県生まれ。インタビュー時 93歳。父親は北海道に漁に行き、船が転覆し、亡くなる。母親は52歳で病気で亡くなる。一番上の兄が満州に行っていて、呼ばれて一人で行った。16歳だった。他の兄たちは戦死した。下関で兄の手紙を見せ船に乗った。昭和14年だった。東京城 鞍山開拓団だった。開拓団には男ばかりだった。駅前の国際運輸株式会社出張所に勤務した。尋常小学校しか出ていなかったが、中学を出たと言って採用された。終戦前まで経理の仕事をしていた。中国人もいた。

 21歳の終戦までそこで働いた主任に言われて、8月8日に吉林に向かって出発した。15日山の中を歩き、新京まで行った。

 日本が負けたことは知らなかったが、みんながそう言っていた。夜になるとロシア人が若い女を引っ張って行った。それから逃れるため、真っ黒い顔して、子どもを抱っこして坐っていた。ひどい目にあったことは忘れた。

 チフスになった時、娘の父親が助けてくれた。馬の肉を売る仕事をしていた。親方が求婚したが、娘の父と駆け落ちして逃げた。心の優しい人だった。出稼ぎで家にいたことが少なかった。嫁さんと子供が3人いたことが、後でわかった。

 文化大革命の時は、影響なかった。共産党の党員になる宣誓をしようとしたが、日本人はダメと言われた。「組長」と言われ、世話役みたいなことをしていたが、日本人だったので、会議には来なくていいと言われた。日本人の友達はいなかった。

 国交回復後、金沢の人が尋ねてきた。手続きをしてくれて、56歳の時に、一時帰国できた。国が支度金を50万くれた。21歳の末っ子を連れてきた。その後、永住帰国し、家族を全部呼び寄せた。2番目の息子の嫁は、工場に勤め始めて事故で死んでしまう。日本に来て7日目だった。その時、孫は5歳だった。14、5年間旅館で働いた。その他にも皿洗いなど掛け持ちして働いてお金を貯めた。後から帰国した人の面倒も見てあげた。子供たちはそれぞれ独立して、中華料理店を開いた。生活保護は一切受けずにやってきた。夫は、日本に来た時70歳過ぎだった。日本語がわからず、仕事にも行けず、かわいそうだった。15年前に亡くなった。

 今までを振り返ると、私は仕事ばっかりだった。ものすごく働いた。体が元気だったから、働いても働いても、きついとは思わなかった。一生懸命働いていれば幸せだった。90歳過ぎるまでは元気だった。国から一銭も貰っていない。

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