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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(19)元沖縄満洲会の会長 名城郁子さん
1934年、昭和9年生まれ。インタビュー時82歳。満洲での思い出、引き揚げの様子。帰国直後の沖縄の様子。沖縄満洲会を立ち上げ、昨年解散するまでの事を伺いました。その活動の中で、貴重な体験記を綴った『沖縄・それぞれの満洲ー語りつくせぬ記憶ー(沖縄満洲会15周年記念誌)』と『戦時下の学童たち -那覇高六期生「戦争」体験記-』(琉球政府立那覇高校六期生(昭和28年卒)戦争体験記発行委員会)の出版は、大きな成果を生んだ。あの戦争でどのようなことがあったのか、沖縄に留まらず人々の関心を呼び、広く深く沈潜し将来にわたって語り継がれていくに違いない。
大正15年に父親は大連の逓信局に勤務するため満洲に渡った。母を呼び寄せ結婚し、兄が生まれ、私が生まれた。生まれたのは大連だった。転勤で通化省の満洲電電株式会社に勤務した。その後終戦まで、奉天にいた。子供の頃は大連でメリーゴーランドに乗って楽しんだ。三越デパートもあり、トイレは水栓、暖房はスチームだった。電話は自動電話(交換手を通さない)だった。東京より大連の方が都会だった。大和ホテルは今もある。4月になると4月は毎年お花見に行った。夏は海水浴に行った。平和で楽しい豊かな子供時代だった。
(中略)
北満から来た人々は麻袋を被って乞食のような格好の行列だった。それを見て中国人は、商売の万頭を全部あげた。中国人は凄いと思った。
(略)
日本に帰れるまで、家族で露天商をやって食い繋いだ。妹が学校を見つけ、敷島小学校にすこし通う事が出来た。兄たちは中学に通った。
昭和21年の5月、いよいよ引き揚げが出来るという話になった。子供は人さらいにさらわれたりという事があった。父親は現地人に子供を売れと言われたりした。
(略)
昭和21年6月11日に佐世保に着いた。
(略)(未定稿)
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